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周鍾嶽[しゅう しょうがく]
周 鍾嶽(しゅう しょうがく)は、清末、中華民国、中華人民共和国の政治家・学者。雲南派の一員と目され、後に国民政府でも要職を務めた。字は生甫。号は惺甫、惺庵。ペー族(白族)。 == 事跡 ==
=== 清末の活動 === 読書人の家庭に生まれ、麗江の府試、大理の院試においていずれも上位で合格する。1900年(光緒26年)、大理西雲書院を卒業し、同郷の先輩にあたる趙藩の下で文案(書記)として登用された。その後、趙藩に随従して湖南省、四川省でも任務に就く。1903年(光緒29年)に雲南に戻ると、郷試を受けて第1位の挙人となった。 1904年(光緒30年)、官費により日本に留学した。弘文学院で学んだ後、早稲田大学に進学して法律・政治を履修した。1907年(光緒33年)に帰国し、省学務公所普通課課長兼省城両級師範教務長となる。同年、雲南省内の鉱山の権利をめぐって清朝がイギリス、フランスと不平等条約を結ぶと、これに反発する雲南各界の代表として、周鍾嶽は北京に派遣された。1910年(宣統2年)秋に、片馬事件〔イギリスによる領土侵犯事件。〕が発生すると、省咨議局により、清朝の外務部に英国への抗議を求める代表として、再び北京へ派遣されている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「周鍾嶽」の詳細全文を読む
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