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周鯁生 : ウィキペディア日本語版
周コウ生[しゅう こうせい]

周 鯁生(しゅう こうせい)は中華民国中華人民共和国国際法学者・外交史家・教育者。武漢大学で主に学術活動に従事し、リットン調査団の報告書を厳しく批判したことでも知られる。晩年には中国共産党に加入した。旧名は
== 事績 ==

=== 留学時代、民初の活動 ===
塾教師の家庭に生まれる。1900年光緒26年)、譚延闓が創設した湖南省立第一小学に入学する。成績優秀であったため、1905年(光緒31年)、日本に留学し、早稲田大学で政治経済を学んだ。留学中に中国同盟会に加入している。
帰国後の周鯁生は革命派のために言論活動に従事し、中華民国成立後の1912年民国元年)1月、譚延闓が漢口で創刊した『民国日報』で李剣農と共に編輯(編集者)に任ぜられた。翌年の第二革命(二次革命)で革命派の言論機関として北京政府に弾圧、閉鎖され、周は上海から国外へ逃れた。周はまずイギリスに赴き、エディンバラ大学で政治経済を学び、修士号を取得している。次いでフランスに渡ってパリ大学で法学を学び、法学博士号を取得した。留学中の1919年五四運動が勃発すると、周は留学生のデモに参加している。
1921年(民国10年)に周鯁生は帰国し、商務印書館に入社して編輯となった。翌年、蔡元培の招聘に応じ、北京大学政治系教授に就任している。この間、教学のほか、国際法や外交史の研究に専念した。1924年(民国13年)末からは、不平等条約改正運動に参加し、『不平等条約十講』という書を出版するなどしている。1926年(民国15年)2月、広州に赴いて広東大学の中山大学への改組に従事した。翌年3月、南京の東南大学(後の国立中央大学の一部)で教授・政治系主任に任ぜられている。その後、国民政府から憲法制定事務に招聘されたが、蒋介石の政治姿勢に反発し、数か月で辞任した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「周コウ生」の詳細全文を読む



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