|
味噌田楽(みそでんがく)は、豆腐やこんにゃく、茄子や里芋などを串に刺し、砂糖や味醂を配合し柚子や木の芽などで香りをつけた味噌を塗りつけて、焼いた料理である。魚も同様に調理する事があり、これは『魚田(ぎょでん)』とも呼ぶ。「田」は田楽の略である。 ==歴史== 平安時代末期に中国より豆腐が伝来し、拍子木型に切った豆腐を串刺しにして焼いた料理が生まれた。その後室町時代になると調味技術が進歩し、すり鉢の登場によって味噌がすり潰されて調味料として使われるようになり、永禄年間(1558年-1570年)頃には焼いた豆腐に味噌をつけた料理が流行、はじめは唐辛子味噌だったものがのち調味味噌となる〔。その料理の白い豆腐を串にさした形が、田植えの時に田の神を祀り豊作を祈願する田楽の、白い袴をはき一本足の竹馬のような高足に乗って踊る田楽法師に似ているため「田楽」の名になったという〔松下 幸子 『江戸料理事典』 169頁〕。「田楽」という呼び名の始めを、貞和6年(1350年)の祇園神社の記録とする説、永享9年(1437年)の『蔭涼軒日録』 が初見とする説、興福寺と東大寺の僧語とする説があり、室町時代後期の連歌師宗長の日記『宗長手記』上巻に「田楽」、下巻の大永6年(1526年)12月条に「田楽たうふ」とある〔。さらに、江戸時代初期の笑話集『醒睡笑』には、田楽法師が下に白袴をつけ、上に色ある物をうちかけ、鷺足に乗って踊る姿が、白い豆腐に味噌を塗る形に似ているという具体的な叙述が見られる。また江戸時代には以下の川柳が詠まれ、豆腐に味噌をつけて焼く田楽の語源を伝えている〔興津 要 『食辞林』 208頁〕。 :''田楽は 昔は目で見 今は食ひ'' それまでは、寒さをしのぐ冬の食べ物であったが、寛永年間(1624年-1645年)の頃には腰掛茶屋の菜飯につきものとなり、京都では祇園豆腐に木の芽味噌を塗り、春の訪れを知らせる木の芽田楽が評判になる。江戸の田楽は串は一本だが、上方では股のある二本刺しを用い、以下のような京唄がある〔。 :''二本差しても柔らかい祇園豆腐の二軒茶屋'' 近江国目川(現在の滋賀県栗東市目川)の菜飯田楽は、串に刺した豆腐に葛を引き味噌を付けて焼いた田楽に菜飯を組み合わせ、東海道を行く旅人に好評だった〔。江戸では、寛保年間(1741年-1743年)の頃には、この目川の菜飯田楽を商う店が浅草近辺に多くあり〔松下 幸子 『江戸料理事典』 26頁〕、宝暦7年(1757年)頃には千住真崎稲荷の境内に、8軒並んで田楽茶屋があって繁盛していたという〔。また江戸では、外で手軽に食べる料理が発達しており、「上燗おでん」の振売が「おでん 辛いの」と呼びながら売り歩いた。味噌田楽は花見の時にも人気の食品であった。 :''短冊の 豆腐も売れる 花の山'' 江戸時代に豆腐料理は人気であり、天明2年(1782年)には『豆腐百珍』が刊行されベストセラーとなった。田楽はこれに収録の豆腐料理の 30パーセント近くを占め、元来は豆腐料理であったが、文化・文政年間(1804年-1830年)になると、大根、蕪、芋、れんこんを素材とした野菜田楽があらわれ〔、こんにゃく、里芋、しいたけなどの様々な物を素材として食べる料理となっていった。山間部などでは里芋や川魚を主体にした串焼きに近い田楽が供されている地域も多い。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「味噌田楽」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|