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和気清麻呂 : ウィキペディア日本語版
和気清麻呂[わけ の きよまろ]

和気 清麻呂(わけ の きよまろ)は、奈良時代末期から平安時代初期の貴族。磐梨別乎麻呂(または平麻呂)の子。氏姓は当初、磐梨別公(いわなしわけのきみ)〔鉱産氏族の伝承を持っている。磐梨の磐は、古代人が鉄は磐のように堅いと考え、鉄の代名詞になったという記載がある。また彼の所領には薬草園があった。〕、のち藤野(輔治能)真人、和気宿禰、和気朝臣に改めた。官位従三位民部卿正三位正一位
== 生涯 ==
備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。神護景雲3年(769年)7月頃、宇佐神官を兼ねていた大宰府の主神(かんつかさ)、中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が宇佐八幡神の神託として、道鏡皇位に就かせれば天下太平になる、と称徳天皇へ奏上する。道鏡はこれを信じて、あるいは道鏡が習宜阿曾麻呂をそそのかせて託宣させたとも考えられているが、道鏡は自ら皇位に就くことを望む。〔『日本後紀』延暦18年2月21日条〕
称徳天皇は側近の尼僧和気広虫(法均尼)を召そうとしたが、虚弱な法均では長旅は堪えられぬため、弟の清麻呂を召し、姉に代わって宇佐八幡の神託を確認するよう、命じる。清麻呂は天皇の使者(勅使)として八幡宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出て、与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現し、大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は与曽女とともに大神の神託、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」〔『八幡宇佐御託宣集』〕を朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告した(宇佐八幡宮神託事件)。
清麻呂の報告を聞いた天皇は怒り、清麻呂を因幡員外介にいったん左遷の上、さらに別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)と改名させて大隅国(現在の鹿児島県)に流罪とした。
神護景雲4年(770年)8月、称徳天皇は崩御し、道鏡は失脚。清麻呂は光仁天皇により従五位下に復位した。その後、播磨豊前国司を歴任する。この時、清麻呂は自ら強く望んで、美作・備前両国の国造に任じられている。
延暦4年(785年)には、神崎川淀川を直結させる工事を行い平安京方面への物流路を確保した。その後、延暦7年(788年)にのべ23万人を投じて上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうと工事を行ったが費用がかさんで失敗している(堀越神社前の谷町筋がくぼんでいるところと、大阪市天王寺区茶臼山にある河底池はその名残りとされ、「和気橋」という名の橋がある)。清麻呂は桓武朝で実務官僚として重用されて高官となる。山背国葛野郡宇太村を選んで平安遷都の建設に進言し延暦12年(793年)自ら造営大夫として尽力した。
また、延暦5年(786年民部卿として民部大輔・菅野真道とともに庶政の刷新にあたった。桓武天皇の勅命により天皇の母・高野新笠の出身氏族和氏の系譜を編纂し、和氏譜として撰上した。子の広世真綱らは、父の没後に官人として活躍した。広世は最澄を招聘して高雄(たかお)の法華会(ほっけえ)を開き、天皇へ最澄を斡旋して勅を蒙り、唐へ留学させ、五男・真綱と六男・仲世は高雄山で最澄と共に空海から密教の灌頂を受けて仏法に帰依し、新仏教興隆に一役買っている。また、姉の和気広虫(法均尼)は夫・葛城戸主(かつらぎのへぬし)とともに、孤児救済事業で知られる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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