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和田 喜八郎(わだ きはちろう、1927年-1999年9月14日)は日本の古物商〔安本美典編著『東日流外三郡誌「偽書」の証明』廣済堂出版 1993年、安本美典『虚妄の東北王朝』毎日新聞社 1994年、三上げんぽう編『だまされるな東北人』本の森 1999年、三上強二監修『津軽発「東日流外三郡誌」騒動』批評社 2000年、斉藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』(文庫版)新人物往来社 2009年、他〕である。『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)や『東日流六郡誌』などの和田家文書の自称「発見者」であるが、近年は「制作者」との評価が定着している〔阿川文正監修、遠藤聡明・金子寛哉・片山泰徳編著『金光上人関係伝記資料集』金光上人関係伝記資料集刊行会(浄土宗総本山知恩院内) 1999年、藤原明『日本の偽書』文藝春秋 2004年、原田実『トンデモ日本史の真相』文芸社 2007年、他〕。 == 人物・来歴 == その経歴は、自ら語ることによれば、1927年生まれで1944年陸軍中野学校に入学、その後海軍に転籍したという。陸軍中野学校関係者から否定され、海軍転籍があり得ないことが指摘されると、後には一切語らなくなった。 1949年に、炭焼き窯を造成中に偶然、仏像、仏具、古文書を発見。同年、金光上人に関わる仏像、護摩器、経筒などを発見。発見の経緯に不審な点が多く、学会では認められていない。 1948年自宅の改装中に天井裏から大量の古文書が落ちてきたという。これが『東日流外三郡誌』を始めとする「和田家文書」であった。その「原本」は、1789年から1822年までの34年間にわたり、陸奥国三春城主の義理の子にあたる秋田孝季と和田喜八郎の先祖である和田吉次の二人が日本全国をめぐって収集し編纂したものであり、これを1870年から1910年の期間に、全巻を和田家の子孫である和田末吉(喜八郎の曾祖父)が写本したとされる。その「写本」は600巻以上にもおよぶ膨大な資料であった。 1975年から1977年にかけて「市浦村史」(資料編上巻東日流外三郡誌)として刊行された。 その後、古田武彦(元昭和薬科大学教授)が真書と主張したが、安本美典(元産業能率大学教授)などは偽書であると主張し、大々的な論争となった。 1979年より1983年まで青森県警友会の会員(和田本人は元皇宮護衛官だったと自称したが、宮内庁はこれを否定し、また1969年に和田を無銭飲食の容疑で逮捕したことのある青森県警の元警察官が異議を唱えたことで偽称が発覚し、退会処分となった)。なお皇宮護衛官について宮内庁より否定されると、支持者である古田の口を通じ、ボランティアとして皇居を警備していたと釈明している。 1999年9月14日、肝心の『東日流外三郡誌』の「原本」の発表を拒んだまま死去〔古田武彦の追悼文「和田喜八郎氏に捧ぐ」(「『古田史学会報』34号)では「『寛政原本』だっていい」として探索の断念が述べられている。〕。死後、和田家はくまなく調査されたが原本は発見できず、むしろ紙を古紙であるかのように見せかけるために使われる薬剤(尿を長期間保管したもの)が発見され〔原田実「『東日流外三郡誌』偽作の現場を訪ねる」東奥日報2003年2月28日付夕刊 斎藤隆一「『東日流外三郡誌』問題の原点―和田喜八郎宅の検証―」『季刊邪馬台国』79号〕、これにより『東日流外三郡誌』が偽書である事は、ほぼ疑いの無いものとなった(『東日流外三郡誌』をはじめとする「和田家文書」の現存分は現在竹田侑子が管理)。和田が古文書を「制作」した理由は、書画骨董の売買の際に利用するためだったと推測されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「和田喜八郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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