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和田 義盛(わだ よしもり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人で、初代侍所別当。 三浦氏の一族で源頼朝の挙兵に参加。鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられる。治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り、平家の背後を遮断した。平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てた。頼朝の死後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北条氏に与した。しかし、二代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡した(和田合戦)。館は若宮大路にあった。 == 生涯 == === 侍所別当 === 久安3年(1147年)、三浦義明の子である杉本義宗(すぎもと よしむね)の子として誕生。和田氏は坂東八平氏のひとつ三浦氏の支族で、相模国三浦郡和田の里(神奈川県三浦市初声町和田)、あるいは安房国和田御厨に所領があったことから和田を苗字とする。 治承4年(1180年)8月22日、三浦氏は伊豆国で平氏打倒の挙兵をした源頼朝に味方することを決め、頼朝と合流すべく三浦義澄(義明の子)以下500余騎を率いて本拠の三浦半島を出立した。義盛と弟の小次郎義茂(よししげ)もこの軍勢に参加している。だが、三浦勢が丸子川(酒匂川)まで来たところで、大雨の増水のために渡河できずにいたところ、23日夜、石橋山の戦いで平家方の大庭景親が頼朝軍を撃破してしまった。 頼朝は行方知れずになり、やむなく三浦勢は三浦半島へ兵を返すが、24日、帰路の鎌倉由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇して合戦となった。『源平盛衰記』によれば、武勇にはやる義盛が畠山の陣の前で名乗りをあげて挑発してしまい、合戦になりかかるが、双方に縁者も多いことからとりあえず和平がなった。ところが事情を知らない義茂が畠山の陣に突入して合戦になってしまい、双方戦死者を出して兵を退いた(小坪合戦)。 26日、畠山重忠は他の平家方と合わせて数千騎で三浦氏の本拠・衣笠城を襲った。義盛は西の木戸口を守るが、三浦一族は先日の合戦で疲労しており、やむなく城を捨てて海上へ逃れることになった。その際に、89歳と老齢だった祖父・三浦義明は「今、この老いた命を武衛(頼朝)に捧げて、子孫の繁栄をはからん」と言い、一人城に残って奮戦して討ち死にした(衣笠城合戦)。 義盛ら三浦一族は海上で北条時政(頼朝の舅)らと合流。29日に安房国平北郡猟島で頼朝を迎えた。『平家物語』によれば、この時、義盛は「父が死に、子孫が死んでも、頼朝公のお姿を見ればこれに過ぎる悦びはない。どうか本懐を遂げて天下をお取りください。その暁には私を侍所の別当に任じてください。上総介だった伊藤忠清が平家から八カ国の侍所別当に任じられ、その威勢をうらやましく思い、いつか自分もと八幡大菩薩に祈願いたしたのです」と願ったという。 9月、安房に集結した頼朝方の残党は再挙を図り、各地の武士に参陣を命じた。その内でも有力な千葉常胤には安達盛長が、上総広常には義盛が使者となった。常胤は直ちに挙兵して頼朝を迎えたが、広常はなかなか応じなかった。頼朝が安房を発し、房総半島を北上し、千葉氏らを加えて隅田川に達したとき、広常は2万騎の大軍を率いて参じた。広常は頼朝の器量しだいではこれを討ち取るつもりだったが、頼朝の威厳に打たれて心服したという。 10月、由比ヶ浜で戦った畠山重忠を含め東国武士が続々と参じ、数万騎の大軍となって頼朝は源氏の本拠鎌倉に入った。10月20日、駿河国富士川の戦いで平維盛率いる平家軍を撃破した。 頼朝は関東の固めに入り、11月に常陸国の佐竹氏を討ち、義盛と広常は佐竹秀義を生け捕りにした。11月17日に鎌倉へ凱旋し、そこで関東統治のための諸機関を設置。義盛は安房での望みどおりに侍所別当に任じられた。12月、鎌倉大倉の地に頼朝の御所が完成し、その入御の儀式に際し、義盛は居並ぶ御家人の最前に立った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「和田義盛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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