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和田 胤長(わだ たねなが、寿永2年(1183年) - 建暦3年5月9日(1213年5月30日))は、鎌倉幕府の御家人。 和田氏の一族。和田義長の嫡男で、和田義盛の甥。通称は平太。弓の名手と伝わる。 ==経歴== いとこの義直、義重(義盛の子)らとともに泉親衡の乱の謀議に加わり、捕縛された。このとき義盛の嘆願により義直、義重は赦免されたが、胤長一人だけ赦されず、陸奥国(後の岩代国)岩瀬郡に配流となった。 さらに、没収された胤長の屋敷が、慣例に反して義盛には与えられず北条義時が召し上げてしまった。これがこの後の和田合戦の引き金になったといわれている。 胤長は和田合戦の後、配流地で処刑された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「和田胤長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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