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和知氏[わちし]
和知氏(わちし)は日本の氏族。 == 概要 == 和地氏とも。和地氏も藤原北家秀郷流結城氏族であり、和知氏と同族である〔日本家紋研究会編『茨城県 家紋と姓氏』(日本家紋研究会、2001年)87頁参照。〕。和地姓の家紋としては丸に蔦柏などがある。 白河結城氏の重臣を経て、佐竹氏の家臣となる〔和知氏の佐竹家臣としての事蹟は常陸太田市史編さん委員会編『佐竹家臣系譜』(常陸太田市、1982年)〕。 和知氏の事績については、『證古文書』に永正15年(1518年)、和知新兵衛が増見の福正寺に邑主の和知駿河守一慶の位牌が安置されたとの記録がある。また『新編国志』によれば、棟札に「和知主膳、同筑前、佐竹の臣なれどもとは白河家人である」と『白河関物語』に伝えている〔太田亮著、上田萬年、三上参次監修『姓氏家系大辞典 第3巻』(角川書店、1934年)6659頁参照。〕。いずれの時期に佐竹家臣に転じたか定かでないが、嘉吉の乱で幕府軍の五陣として派遣された一党として京都扶持衆の山入氏の武将佐竹義顕、石川彦三郎親元、高野出羽守とともに和知豊後入道の名も見え、早い時期から随身したか、協力関係にあったと考えられる〔大内政之介著『山入一揆と佐竹氏』(筑波書林、1991年)86頁参照。〕。佐竹氏の陸奥国南郷支配に活躍した武将としても和知氏一門の名が見え、南郷の“う井”なる地に50貫を給された人物として和知雅楽助の名が見える〔佐々木倫朗著「佐竹氏の陸奥南郷経営―戦国期から統一政権期にかけて―」『歴史人類 第5号』(筑波大学歴史人類学系、1997年3月)67頁、佐々木倫朗著『戦国期権力佐竹氏の研究』(思文閣出版、2011年) 232頁、233頁参照。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「和知氏」の詳細全文を読む
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