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咸北線(ハムブクせん)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道清津市浦港区域にある班竹駅から、北上して会寧市より中華人民共和国の国境線と並行する形で豆満江沿いに南下して、羅先特別市にある羅津駅までを結ぶ鉄道路線である。 ==概要== 前述した通り、北朝鮮と中国の国境線に並行する形で同国の北東部を3/4周する路線となっている。清津青年と羅津の間は平羅線が海岸沿いに81.2kmで結んでいるが、その3.8倍もの迂回ルートである。 現在咸北線と呼ばれる路線は、日本統治時代に建設された咸鏡線・南満州鉄道北鮮西部線・北鮮東部線・雄羅線を原型としている。すなわち、現在の咸北線のうち *班竹~三峰間:咸鏡線(咸鏡本線)の一部 *三峰~南陽間:南満州鉄道北鮮西部線 *南陽~先鋒間:南満州鉄道北鮮東部線 *先鋒~羅津間:南満州鉄道雄羅線 にあたる。その路線形成の経緯は複雑で、まず日本統治時代に朝鮮総督府鉄道局咸鏡線の延伸として1916年に清津~蒼坪間を開業させ〔朝鮮総督府官報 大正1259号, 1916年10月12日〕、南満洲太興→図們鉄道という軽便鉄道会社が会寧から上三峰・潼関までを建設、1927年に上三峰から満州(中国東北部)側の天図鉄道とを直接結ぶ豆満江橋梁が完成し、満州連絡鉄道の一つとなった。しかし軌間が異なっていたことから、他の朝鮮鉄道とは直通運転ができなかった。 1929年には図們鉄道を朝鮮総督府鉄道局(鮮鉄)が買収し、会寧~潼関間を図們西部線とする。そしてほぼ同時に、図們東部線として日本海に面した港の雄基(現:羅先)を起点とし潼関に至る、日本と満州東部を結ぶ短絡ルートの一つとなる路線の整備も薦められ、1929年に雄基~新阿山間が開業したのを皮切りに、1932年に南陽まで、1933年までに潼関までが開業し全通、図們線となった。同時に上三峰~潼関間も改軌された〔朝鮮総督府官報 昭和1963号, 1933年7月26日〕。同年には、満州国(1932年建国)の首都新京(現:長春)から図們(南陽の対岸)までを結ぶ満州国有鉄道(実際の経営は南満州鉄道、通称:満鉄に委託)京図線が開業し、同年10月には豆満江(当時は図們江と呼称)に2本目の鉄道橋がかけられ、雄基~新京を結ぶ鉄道線が完成した。 1934年10月には、清津~雄基間の鉄道は満州との結び付きが強いという事情もあり、南満州鉄道北鮮鉄道管理局に運営が移管された。1935年には満鉄の手で、雄基に代わる日本との接続港となる羅津港(後、雄基が改名した先峰と共に統合され、羅先となる)が整備され、同時に北鮮鉄道も雄基~羅津間が延伸された。これらの港へは清津と共に、日本の門司・敦賀・新潟などの港から連絡船が運航されており、満鉄ではそれらの航路に接続する形で、羅津~新京間を結ぶ急行列車「あさひ」を1936年に運行開始している。 1940年、清津~上三峰間の路線については再び鮮鉄に経営移管され、元山~上三峰間が咸鏡線となった。この頃になると、朝鮮の中心都市京城(現:ソウル)より満州東部黒竜江省の牡丹江を結ぶ急行列車も運行されるようになり、戦前の最盛期を迎えることとなった。 太平洋戦争の末期にはソ連軍(赤軍)の攻撃もあり、路線の一部が運休となった。終戦後、北緯38度線を境にして朝鮮半島北部にはソ連軍が進駐することとなるが、ソ連軍の圧力と人民委員会の確執もあり、復興はなかなか進まなかった。更には朝鮮戦争(1950年~1953年)による破壊も加わった。 同戦争後、中国とソ連の支援もあり、両国との接続路線となる咸北線は優先的に復興が行われることになった。1959年にはソ連の援助によって、豆満江の朝ソ国境に親善橋が開通、1965年に開業した平羅線とともに羅津~洪儀間(洪儀駅から親善橋の対岸にある豆満江駅に至る洪儀線が分岐)は、ソ連(現:ロシア)への重要ルートとしての使命をも帯びることとなる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「咸北線」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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