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品川 氏章(しながわ うじあき、1845年7月28日(弘化2年6月24日)〔『幕末維新大人名事典』上巻、627頁。〕 - 1889年(明治22年)9月6日)は、江戸時代末期から明治時代初期の人物。長府藩士、報国隊士及び陸軍軍人。栄典は正四位勲二等。最終階級は陸軍少将。 == 来歴 == 長門国長府藩士清水家の子として生まれる。幼名は省吾。のち品川弥二郎の養子となり、品川姓を名乗る。 養父とともに報国隊結成に参画し、のちに軍監となる。 慶応2年(1866年)6月、高杉晋作、山縣有朋らの率いる長州藩に加わり、小倉戦争に参加。慶応3年(1867年)10月、藩主元周の密命を受けて上洛。同年12月、倒幕の密勅が長州・薩摩に下されると帰藩し、北越戦争にも報国隊軍監として転戦。藩権大参事、のち大属となる。 1871年(明治4年)の廃藩置県後、兵部省出仕。中佐であった1877年(明治10年)3月、西南戦争に第4旅団参謀長として出征〔第4旅団本営人員表 Ref:C09085008200 陸軍省-西南戦役第4旅団-M10-4-407(所蔵館:防衛省防衛研究所)〕。以降も工兵局長、東京鎮台軍法会議判士と出世を重ね、1885年(明治18年)5月、工兵会議議長になると同時に陸軍少将に累進。 1886年(明治19年)3月、歩兵第10旅団長に任じられるが、1889年(明治22年)7月ごろより病を患う。 同年9月6日、松山の任所にて没。享年45。墓は功山寺にあり。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「品川氏章」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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