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品川 高如(しながわ たかゆき)は、江戸時代の高家旗本。 == 生涯 == 旗本品川高久の長男。 寛永元年(1624年)、13歳で将軍徳川家光に御目見する。寛永16年(1639年)閏11月7日、父高久の死去により、家督を相続し。表高家に列する。正保元年(1644年)4月10日高家職に就任し、12月29日従四位下内膳正に叙任する。正保3年(1646年)12月晦日侍従となる。 慶安元年(1648年)、閏正月28日に仁和寺宮覚深法親王が他界したため仙洞への御使を務める。慶安3年(1650年)9月3日西丸高家に転任し、翌年高家に戻る。寛文3年(1663年)4月には徳川家綱の日光東照宮参詣に供奉。寛文9年(1669年)11月、鷹司房子の入内に際し松平定房の副使として入洛。12月23日に従四位に昇った。 寛文11年(1671年)4月25日死去、60歳。 本家の今川家は、今川直房の没後、短命の当主が続き、高家職に登用されなかった。それに代わって、分家の品川家から高如、伊氏と二代にわたって高家職に登用された。伊氏の代には本家をしのぐ1,500石の知行取りにまでなった。 正妻は松平勝隆の娘(勝隆の姪で養女とも)。後妻は宝樹院(徳川家光側室)の妹。一男あり、重治は、母方の祖父能見松平勝隆の養子になった。品川家は、重治の次男伊氏が相続した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「品川高如」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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