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唐 十郎(から じゅうろう、本名:大靏 義英(おおつる よしひで)、1940年2月11日 - )は、劇作家・作家・演出家・俳優。 父は理研映画で監督・プロデューサーを務めた大鶴日出栄。前妻は女優の李麗仙(1967年結婚、1988年離婚)、長男は俳優・小説家・映画監督の大鶴義丹。1989年の再婚後にもうけた長女は女優の大鶴美仁音(みにょん)、次男は大鶴佐助。 作家としても活躍、『佐川君からの手紙』で芥川賞を受賞。俳優として自作以外の映画やテレビドラマに出演することもある。他の演出家への戯曲提供も多い。2012年4月より明治大学大学客員教授に就任。 == 来歴・人物 == 東京府東京市出身。下谷区立坂本小学校、私立駒込中学校、東邦大学付属東邦高校を経て、明治大学文学部演劇学科卒業。演劇の新テーゼ「特権的肉体論」を提唱して、1963年に笹原茂峻(笹原茂朱)らと共に劇団「シチュエーションの会」(翌年「状況劇場」に改名)を旗揚げ。旗揚げ公演はサルトル作の『恭しき娼婦』。翌1964年の処女戯曲『24時53分「塔の下」行きは竹早町の駄菓子屋の前で待っている』で、初めて唐十郎の筆名を用いる。 この時期、李礼仙(李麗仙の旧芸名)と共に「金粉ショー」をしながらキャバレーを巡り、芝居の資金や紅テントの購入費用を調達した。 1967年2月、新宿ピットインで、ジャズ・ピアニスト山下洋輔とジョイント公演。この時の、入場待ちの行列を見て、自分のやっていることに自信がでてきたという〔村松友視『夢の始末書』(角川文庫)P.132〕。 1967年8月、新宿・花園神社境内に紅テントを建て、『腰巻お仙 -義理人情いろはにほへと篇』を上演。当初、神社側から「『腰巻』では国体に反する」とのクレームが入ったため、『月笛お仙』と改題して上演したが、1週間程度で元の『腰巻』に戻している。この紅テントが話題を呼び、後の「状況劇場」の方向性を決定づけた。花園神社の紅テントではその後も、『アリババ』、『傀儡版壺坂霊験期』、『由比正雪-反面教師の巻』の上演を行ったが、公序良俗に反するとして地元商店連合会などから排斥運動が起こり、ついに神社総代会より68年6月以降の神社境内の使用禁止が通告された。1968年6月29日、「さらば花園!」と題するビラをまき、状況劇場は花園神社を去った。 1969年1月3日、東京都の中止命令を無視し、新宿西口公園にゲリラ的に紅テントを建て、『腰巻お仙・振袖火事の巻』公演を決行。200名の機動隊に紅テントが包囲されながらも最後まで上演を行った。これが世に知られる「新宿西口公園事件」である。上演後、唐十郎、李麗仙ら3名が「都市公園法」違反で現行犯逮捕された。 この頃から、マスコミにしばしば取り上げられるようになった。「天井桟敷」の寺山修司、「早稲田小劇場」の鈴木忠志、「黒テント」の佐藤信と共に「アングラ四天王」と呼ばれ、アングラ演劇の旗手とみなされた。 状況劇場は初期には麿赤児、不破万作、大久保鷹、四谷シモン、吉澤健ら、後に根津甚八、小林薫、佐野史郎、六平直政、菅田俊、渡辺いっけいら名優を輩出した。また、横尾忠則、金子國義、赤瀬川原平、篠原勝之らがポスターを描いた。 また、韓国の抵抗詩人で、当時保釈中の金芝河との合同公演をもくろみ、戒厳令下の韓国に渡航して取材をし、『二都物語』を執筆。1972年3月に再度渡韓し、無許可のまま、ソウルにて、金芝河作の『金冠のイエス』とともに『二都物語』を韓国語で上演する。 翌1973年にはバングラデシュのダッカ、チッタゴンで『ベンガルの虎』、1974年にはレバノン、シリアの難民キャンプで『アラブ版・風の又三郎』といずれも現地語での公演を行った。 また、中央公論社『海』の編集者だった村松友視の薦めで、小説を書くようになり、1983年、「佐川君からの手紙」で芥川賞を受賞する。 1988年、状況劇場を解散して劇団「唐組」を旗揚げ。作・演出・出演を務める。1997年10月には横浜国立大学教育人間科学部マルチメディア文化課程教授に就任し、「舞台芸術論」などの講義と学生・中野敦之らの「劇団唐ゼミ☆」を指導(第2回公演まで作・演出を、それ以降~現在は作・監修を務める)。2005年、同大学を定年退職。同年、近畿大学文芸学部客員教授就任。2010年1月、同大にて最終講義を行った。2012年4月より、母校である明治大学文学部の客員教授に就任。2012年5月、脳挫傷の大ケガを負い、リハビリと脳外科の専門医によるトレーニングをへて2015年『ダイバダッタ』を上梓した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「唐十郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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