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唐津炭田[からつたんでん] 唐津炭田(からつたんでん)とは佐賀県北部~西部に分布していた大小の炭鉱群のこと。同県の多久市、大町町、相知町(現・唐津市)などが中心となっていた。 ==概要== 一帯には杵島層と相知層という主な二つの炭層群が存在し、その一帯に大小の炭鉱が見られた。古くから石炭が採掘されたことは知られており、享保年間には既に個人規模で石炭採掘が行われ、薪の代わりなどに用いられていたが、幕末になると困窮を極めた諸藩が経済政策のために藩営の炭鉱を開発するようになり、製塩向けに需要を伸ばし、市場経済に乗せられるようになった。その中に、幕府が直営する炭鉱もあり御用山と呼ばれた。この御用山は明治に入ると、海軍が管轄する海軍直営鉱山になり、艦船の燃料として用いられた。 しかし、浅い炭層を掘り尽くしたことなどで多くが民間に払い下げられ、福岡、長崎らの多くの富豪や財閥系企業が買い取った。その中でも炭鉱王とも呼ばれた高取伊好は政治家であった竹内綱と手を組み、一帯の炭鉱開発に取り組んだ。だが、既に老朽化した施設での炭鉱運営は決して楽な道のりではなく、せっかく開発した良質の炭層を三菱などの大財閥に売却せざるを得なくなった経緯などがある。しかし、1909年に杵島層で良質な炭層を見込んで開発した杵島炭鉱運営が軌道に乗り、年産60万トンにまで及ぶ国内有数の炭鉱に成長した。特に、杵島産石炭は他の唐津炭田と一線を画し、「キシマコール」といわれ、艦船用燃料炭の標準規格とまで評価され、外国向け輸出品にもなった。その際、1900年には沿線の石炭を運ぶための鉄道、唐津興業鉄道が開通した。それに伴い、唐津港はますます貿易拠点、工業都市としての重要性を増し、唐津市は大いに発展した。 だが、後に艦船の技術進歩によって唐津産石炭は燃料に適さなくなり、需要が衰えた。さらに、埋蔵量が豊富で良質の石炭を産出した三池炭田、開発が拡大した筑豊炭田の影響を大きく受けた。八幡に官営八幡製鐵所ができ、門司港が国際貿易港として発展したため、唐津の優位性が落ちたためである。それにしたがい唐津は低迷を余儀なくされたが、唐津に拠点を置いた三菱は一帯の鉱山を買い占め、傘下に収めた。昭和に入ってからは徹底した合理化を行い、相次ぐ好不況や恐慌などの厳しい時代を生き抜いたがその際に、劣悪な環境での囚人労働や強制収容者による労働なども起こっている。 戦後は大規模な炭鉱を中心に収益性を高めた採炭を行い、1958年(昭和33年)では一人あたりの採炭量は全国トップにまで躍り出るなど健闘し、唐津港に新たな石炭化学プラントの建設などが持ち掛かった矢先、後のエネルギー革命によって安価な輸入石炭の国内流入によって急速に衰え、1972年で大小述べ50以上を数えた全ての炭鉱が閉山した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「唐津炭田」の詳細全文を読む
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