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唐紙(からかみ)とは、襖に貼る加工紙の一種。産地・特徴において、京から紙と江戸から紙の2系統に分かれる。 == 京から紙 == === 紙屋(かんや)川と秦氏 === 京都の西北に連なる鷹ケ峰、鷲ケ峰、釈迦谷山などの山稜から一筋の川が流れている。南下して北野天満宮と平野神社の間を抜けて、西流してやがて御室川と合流し再び南下して、桂川に注ぐ。この流れを紙屋(かんや)川と呼ぶ。 紙屋川と呼ぶのは、平安時代の初期に図書寮直轄の官営紙漉き場の紙屋院がこの川のほとりに設けられたからである。紙屋院の置かれていた位置の明確な記録はないが、『擁州府誌(ようしゆうふし)』には、「北野の南に宿紙(しゅくし)村あり、古この川において宿紙を製す。故に紙屋川と号す。」とある。 『日本紙業史・京都篇』によっても、北野天満宮あたりの紙屋川のほとりにあったことは確かである。官営紙漉き場であった紙屋院は、平安時代の製紙技術のセンターであり、当時の最高の技術で紙を漉き、地方での紙漉きの技術指導も行った。 『源氏物語』には、「うるわしき紙屋紙」と表現し、またその色紙を「色はなやかなる」と讃えている。紙屋院が設けられる前の奈良時代にも図書寮が製紙を担当していた。 『令集解』には、紙戸五〇戸を山代国(山城国・現京都)に置いたと記録している。山城国に特定したのは、古代における最大の技術者渡来集団といえる、秦氏が勢力を張っていた拠点であったからである。 秦氏の渡来当初は、現在の奈良県御所市あたりにヤマト政権より土地を与えられている。のちに主流は山城国に移り、土木・農耕技術によって嵯峨野を開墾開拓し、機織り・木工・金工などの技術者を多く抱えて、技術者集団をなしていた。 機織りの技術者がいたことから、当然当時の衣料の原料である麻や楮の繊維から製糸する技術者もいた。製糸の技術は、麻や楮の靱皮(じんぴ)繊維を利用することでは、製紙と類似技術であり、原料の処理工程は殆ど一緒であり、繊維を紡ぐか、繊維を漉くかの、まさに紙一重の違いしかない。すでに原始的な紙漉きの技術を、持っていた可能性もある。 このような技術的な基盤のもとに、平城京の政権は、山城国(山代国)に紙戸(官に委託された紙漉き場)を置いた。飛鳥時代の宮廷・官衙の物資調達に任じたのが蔵部で、秦大津父は大蔵掾に任じられ、聖徳太子の蔵人となった秦河勝は京都太秦に峰岡寺(後の広隆寺)を造営している。 秦忌寸朝元は天平11年(739年)に図書頭に任じられている。平安時代に入ると、秦公室成は弘仁2年(811年)、図書寮造紙(ぞうし)長上であった秦部乙足に替わって、図書寮造紙長上に任命されている。秦氏は、このように古くから、造紙関係の要職と深くつながっていた。秦氏のような、技術者の基盤の上に製紙の国産化が行われ、山城国が製紙の先進技術を誇り、和紙の技術センターの役割を担ったが、紙の需要が高まるにつれ、原料の麻や楮は地方に頼らざるを得なくなった。 紙の需要が高まるにつれ、皮肉なことに律令制度に緩みがでて、紙の原料の供給が細ってしまった。紙屋院の技術指導によって、各地で紙漉きが盛んになり、律令制度の統制力の弱体化とも相まって、紙屋院は原料の調達が思わしくなくなった。このような経緯で、紙屋院は反故紙を集めて漉き返しの宿紙を漉くようになった。 のちに、紙屋紙は宿紙の代名詞とも成り、のちに堺で湊紙、江戸で浅草紙という宿紙が漉かれるようになってから、京都の宿紙は西洞院紙と呼ばれるようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「唐紙」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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