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唐順棋[とう じゅんき]
唐 順棋(とう じゅんき、1929年1月16日 - )は、日本の映画監督である〔キネ旬, p.125.〕〔''唐沢二郎''、''jlogos.com'', エア、2014年6月30日閲覧。〕〔''唐沢二郎''・''早坂紘''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年6月30日閲覧。〕〔''唐順棋''・''唐沢二郎''・''唐沢次郎''・''早坂紘''・''早坂絋清''、日本映画情報システム、文化庁、2014年6月30日閲覧。〕〔''唐沢二郎''・''早坂絋''、日本映画データベース、2014年6月30日閲覧。〕〔''唐順棋''、資料室、東宝、2014年6月30日閲覧。〕〔''唐順棋''・''唐沢二郎''、テレビドラマデータベース、2014年6月30日閲覧。〕。神奈川県横浜市生まれ、国籍は中華人民共和国である〔。日本名唐沢 二郎(からさわ じろう)〔〔〔〔〔〔、別名早坂 紘(はやさか こう)あるいは早坂 絋清(はやさか こうせい)の名でも活動した〔〔〔〔。「早坂絋」「早坂絃」「早坂宏」と記されることもある。おもにテレビ映画において「唐順棋」、劇場用映画において「唐沢二郎」「早坂紘」を使い分けた〔〔〔〔。連続テレビ映画『水滸伝』、『西遊記』では時代考証を手がけた〔〔林, p.269.〕。 == 人物・来歴 ==
=== 時代劇の助監督から月光仮面へ ===
1929年(昭和4年)1月16日、神奈川県横浜市中区元町に生まれる〔〔。『日本映画監督全集』によれば、本籍は中華人民共和国上海市にあるといい〔、同国は1949年(昭和24年)10月1日に建国されており〔、2014年6月30日閲覧。〕、同書の記述が正しければ同国建国以降のものであり、唐の誕生の時点では同地は中華民国に属していた〔、2014年6月30日閲覧。〕。旧制・神奈川県立横浜第三中学校(現在の神奈川県立横浜緑ヶ丘高等学校)、旧制・第一高等学校(現在の東京大学教養学部)文科甲類を卒業し、第二次世界大戦後、京都大学法学部に進学した〔。同学在学時の友人に当時の東映京都撮影所長であり、かつてのマキノ・プロダクション總務部次長であった長橋善語(長橋達夫〔1929年 マキノ・プロダクション(御室撮影所)所員録 、立命館大学、2014年6月30日閲覧。〕)の子がおり、唐は長橋の薫陶を受けて映画界入りを決意したという〔。 1953年(昭和28年)3月、同学を卒業するとともに、高村将嗣の宝プロダクション(京都市右京区)に入社する〔〔宝プロダクション撮影所 、立命館大学、2014年6月30日閲覧。〕。同社は当初は新東宝配給作品を製作していたが、東映配給に変更になり、同年には自主製作を中止、東映京都撮影所とステージ賃借契約を結んだ会社である〔。唐は当初はマキノ雅弘、ついで渡辺邦男、中川信夫に師事した〔。当時同社の助監督部には加藤泰の弟子として船床定男がいた〔樋口, p.105.〕〔ガミさんの遺言 、木全公彦、マーメイドフィルム、2014年7月1日閲覧。〕。同社は1958年(昭和33年)には倒産するが〔、唐はすでにその前に退社しており、倒産前年の1957年(昭和32年)4月2日、同4月23日に東宝が製作・配給して公開された『早く帰ってコ』、『東京だヨおッ母さん』の2作にチーフの船床、セカンドの永倉君平につぐサード助監督としてクレジットされている〔。宝プロダクションが倒産するころには、船床らとともに宣弘社と契約を結び、連続テレビ映画『月光仮面』で監督に抜擢された船床のチーフ助監督を務める〔。1958年11月4日に放映開始した『遊星王子』では、唐沢 二郎の名で監督に昇進した〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「唐順棋」の詳細全文を読む
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