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喜入久道 : ウィキペディア日本語版
喜入久道[きいれ ひさみち]

喜入 久道(きいれ ひさみち)は安土桃山時代薩摩国島津氏の家臣。
==生涯==
喜入季久の長男として誕生、家督を継ぐと喜入(現・鹿児島市喜入町)と鹿籠(現・鹿児島県枕崎市)併せて5,148石を領した。
犬追物の上手であったようで、天正3年(1575年)11月に催されたそれでは、11疋を射る腕前を見せている。武将としては、天正13年(1585年)の肥後御船城攻めに従軍、天正15年(1587年)に豊臣秀長により新納院高城が攻められると、山田有信と共に城に籠り、島津義久の説得により降伏すると、有信の嫡子・山田有栄共々豊臣方の桑山重晴の人質となった。
その後に、喜入・鹿籠から永吉(現・鹿児島県鹿児島市永吉)へ転封となる。また、一男一女があったが共に早世したため後継ぎがなく、島津義弘の四男・万千代丸を養子に迎える予定であった。しかし、万千代丸も9歳で夭折したことから、天正17年(1589年)義久の命により出家していた末弟の忠続が養子とされた。
慶長5年(1600年)8月に死去した。享年42。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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