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喜多村 宗則(きたむら むねのり)は、江戸時代前期の陸奥弘前藩の武士。同藩家老職。津軽監物・津軽政広。 == 生涯 == 津軽信政に小姓として召し出され信頼篤く、延宝5年(1677年)、藩主の命により姓を「北村」から「喜多村」に改め、500石を与えられた。同年12月26日、藩主の師である山鹿素行の三女・鶴との婚姻が決まり、翌年の正月26日結婚した。 延宝6年(1678年)、300石の加増で800石となり、馬廻五番組頭となり、同9年(1681年)、藩主信政より「政」の偏諱を貰い「宗則」から「政広」と改めた。同時に津軽姓も許され、津軽監物政広と名乗る。 天和2年(1682年)正月、江戸家老に任命されたが、6月に江戸にて25歳で病没した。 嫡男の政方は父の死から2か月後の8月に出生した。父が藩主の寵臣であったこともあり、減封の上で同年11月に家督相続が認められた。 妻の兄弟の政実は延宝9年(1681年)に弘前藩に1000石で仕官、津軽姓を許され津軽大学と名乗り、のち家老職。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「喜多村宗則」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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