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嗣徳帝[しとくてい]
嗣徳帝(しとくてい、トゥドゥックてい、Tự Ðức、1829年9月22日 - 1883年7月17日)は、阮朝の第4代皇帝(在位:1847年-1883年)。諱は阮福洪任(Nguyễn Phúc Hồng Nhậm)、後に阮福時(Nguyễn Phúc Thì)と改めた。 18歳で即位。先帝の治世で緩和されていたキリスト教弾圧を再度強化し、ナポレオン3世による勅使との交渉も拒絶。これをきっかけとして1858年にフランス・スペイン連合軍がダナンに侵攻、更にサイゴン・ビエンホア(辺和)・バリア(把地)・ビンロン(永隆)を占領された。トンキン地方で発生した飢饉とそれに続く反乱に忙殺された阮朝は、結局1862年に壬戌条約(第1次サイゴン条約)を締結。コーチシナ東部三省(辺和、嘉定、定祥)及び崑崙島の割譲と2千万フランの戦費賠償金を支払いを受け入れ、キリスト教の布教を認めざるを得なかった。加えて1867年には保護領とされたカンボジア平定のためにコーチシナ西部三省を奪われる。 その後、太平天国の系統を引く呉鯤の黒旗軍が侵入してフランスと対立。1882年には黒旗軍とコーチシナから出兵したフランス軍との間で戦闘に発展し、さらに嗣徳帝の救援要請を受けた清朝も出兵。清仏戦争に発展するが、1883年7月に嗣徳帝が死去。甥の育徳帝が即位するがわずか3日で廃位され、代わって協和帝が擁立されるも、重臣により毒殺。後を襲った建福帝も即位後わずか半年で死去し、弟の咸宜帝が即位する。短期日で皇帝が交代する代わる混乱の中、清仏戦争はフランスの勝利に終わり、結果として阮朝はフランスの保護国としてようやく命脈を保つに至る。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「嗣徳帝」の詳細全文を読む
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