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上條 嘉門次(かみじょう かもんじ、1847年11月21日(弘化4年〔『山で死なないために』p.77。〕10月14日) - 1917年(大正6年〔)10月26日〔『北アルプス博物誌 I 登山・民俗』p.42。〕〔『北アルプス博物誌 I 登山・民俗』p.43。〕)は、上高地で杣、山見廻り人夫、猟師をしていた人物。山案内人として有名になった〔〔。没年を1918年〔『北アルプス この百年』p.127。〕とする書籍もある。 == 来歴 == 信濃国安曇郡稲核村に、有馬又八の次男として生まれた〔。12歳のとき、杣見習いとして上高地へ入り〔、16歳~18歳のとき、松本藩の藩有林の見廻り人夫となる〔〔。明治2年、23歳で杣職としてほぼ一人前になり、島々村の上條家に婿入りし、翌年長男嘉代吉をもうけた〔『山人のムラ』p.13〕。30歳を越えるころ明神池畔に小屋を建て、猟を生活の中心に据えた。夏にイワナ、冬にカモシカ、クマなどを獲って生活した〔〔『北アルプス この百年』p.128。〕〔。 外からやってきた人に山案内を請われれば案内をした〔。当時、当地の公式な地図はなかった〔陸地測量部による地図刊行は1913年(大正2年)〕〔『黎明の北アルプス』p.166。〕が、経験と勘で山を案内し、滑落した人を背負って麓まで下りた〔『北アルプス博物誌 I 登山・民俗』p.44。〕〔。45~46歳のとき、ウォルター・ウェストン夫妻を北アルプスへ案内した話で有名になった〔〔。生活の姿としては、中心にあったのは猟師生活で〔〔、ガイドのプロとして山を案内したグループは生涯で20組に満たないという〔。明神池の畔に建てた小屋は、のちに嘉門次小屋と呼ばれることになった〔。安曇村島々で亡くなった〔。 前述のように本格的な活動はしなかったが小林喜作、内野常次郎といった山岳ガイドより畏敬される人物であった。ウェストンは嘉門次を「老練なる山岳人」と評した〔。 口癖は「山はネコのように歩け、石一つ落とすな」だったという〔。 また、参謀本部陸地測量部に徴発され、測量の仕事に協力している〔『日本アルプス再訪』p.219〕〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上條嘉門次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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