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嘉靖帝[かせいてい]
嘉靖帝(かせいてい)は、明朝の第12代皇帝。諱は厚(こうそう)(の字は火偏+總)。廟号は世宗(せいそう)。日本では治世の元号から一般的に嘉靖帝と称される。 == 生涯 == 弘治帝の弟の興王朱祐杭の次男で、先帝である正徳帝の従弟に当たる。兄・朱厚熙が先に没したために父の後継者(世子)となる。正徳14年(1519年)に父が没するが、興王位を継承する前の正徳15年(1521年)に正徳帝が崩御した。正徳帝の子が早世していたため、正徳帝にもっとも血筋の近い皇族ということで、傍系でありながら皇帝に即位した。 即位後、正徳帝が寵愛していた銭寧・江彬を処刑して、宮中の官員を整理し、先代の弊風を一新した。しかし嘉靖帝は傍系であったため、大礼の議問題が発生した。嘉靖帝は弘治帝から従兄の正徳帝を経て帝位を継承したため、形式上は弘治帝の子になり、弘治帝を父とする必要があった。しかし嘉靖帝は、実父の興献王(「献」は朱祐杭の諡号)を皇考(皇帝の父)として扱うこととしたため、系譜上では弘治帝が消滅することになった。そのため、弘治帝を皇考とすることを求める廷臣たちと論争し、意見の異なる臣下を200人あまりも解任または投獄した。この事件により、皇帝に諫言を行う臣下が減少したとされる。 正徳帝の遺詔で、正徳期の悪政が一掃された。嘉靖帝の功績として評価する見方もあるが、実際は正徳帝の遺臣が行ったことである。嘉靖帝自身は朝政を省みることはなく、道教に熱中し、青詞(道教における祭文)に長じているという理由で高官に人材登用を行った。そのため、この時登用され内閣大学士に任じられた厳嵩は「青詞宰相」と称された。 対外的には北方のアルタン・ハーン率いる右翼モンゴルによる侵攻、南方では倭寇による衝突が発生し、国事多難の時期であったが、嘉靖帝は紫禁城の中にこもり、自らの生活を享受していた。嘉靖45年(1566年)に丹薬を長年服したことによる中毒死で崩御した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「嘉靖帝」の詳細全文を読む
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