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因州山 稔(いんしゅうざん みのる、1916年3月1日-1980年5月3日)は、鳥取県気高郡宝木村(現役当時、現在の鳥取県鳥取市気高町)出身で、1940年代に活躍した大相撲力士である。本名は梅原 實(うめはら みのる)→渡辺 實(わたなべ -)。現役時代の体格は174cm、101kg。得意手は右四つ、寄り。 == 来歴・人物 == 17歳の時に、元横綱・栃木山が率いる春日野部屋へ入門し、1934年1月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、「久寶山」。 固く体が締まったアンコ型で、右差しで頭を付けての寄りを得意とした。ただし、右を差さないと力を出せない右一辺倒の力士であり、そのため“右の石松”の異名があった〔『平成25年版 大相撲力士名鑑』P124〕〔『戦後新入幕力士物語 第1巻』P38〕。 昇り坂の時期の1938年1月場所から、兵役により、3年間のブランクがある。1941年1月場所から本場所に帰還したが、十両昇進まで8年半、入幕まで13年を費やした。そのため、入幕を果たした時には、30歳になっていた。 幕内在位は僅か3場所に終わり、1947年11月場所後、31歳で角界を去った〔『古今大相撲力士事典』P57〕。 その後は東京都内で砂利運搬の仕事に従事していたが、1980年5月に、64歳で亡くなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「因州山稔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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