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国司元相 : ウィキペディア日本語版
国司元相[くにし もとすけ]

国司 元相(くにし もとすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の家臣。
== 生涯 ==
明応元年(1492年)、毛利氏の家臣・国司有相の子として生まれる。
元相は毛利元就の嫡男・毛利隆元傅役を務め、隆元から深い信任を得ていた。天文9年(1540年)、出雲国の尼子詮久(後の尼子晴久)が大軍を率いて毛利領に侵攻し、吉田郡山城を包囲、攻撃してきた(吉田郡山城の戦い)。この戦いの局地戦である青山土取場の戦いで、元相は渡辺通らとともに奮戦し、尼子方を撃破する勲功を挙げた。
天文11年(1542年)、父の死去に伴い家督を相続。同年、周防国長門国を本拠とする大内義隆は、吉田郡山城攻略の失敗により勢力を著しく減らした尼子氏を一挙に滅ぼすべく、尼子領へ侵攻すると毛利氏もこれに従った。大内勢は尼子勢を撃破し、一時は月山富田城の包囲に成功したものの、翌年、尼子方の反撃によって敗走。元相も危険な撤退戦を行い、帰還を果たすものの戦傷を負っている。
天文19年(1550年)、家中の井上党を粛清した毛利元就は、新たな体制として五奉行制を定めると、元相は赤川元保粟屋元親桂元忠児玉就忠とともにその一人となった。弘治元年(1555年)の厳島の戦いでも奮戦。永禄3年(1560年)には正親町天皇の即位料を調進する使者として上洛。室町幕府の将軍足利義輝にも面会し、槍の鈴の免許を与えられた。翌、永禄4年(1561年)の石見国松山城での戦いでは、児玉就忠と共に一番に城中に攻め入る功を挙げている。
元相は永禄10年(1567年)頃に嫡男の国司元武に奉行職を引き継いでいるが、その後も奉行人としての扱いを受けていたようで、元亀3年(1572年)の毛利氏家中の掟の制定に関して、奉行人の一人としてこれを確認している。
天正19年(1592年)、100歳という長寿で死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「国司元相」の詳細全文を読む



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