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国立銀行条例(こくりつぎんこうじょうれい、明治9年8月1日太政官布告第106号)は、国立銀行について定めた太政官布告。最初は、1872年(明治5年)に明治5年11月15日太政官布告第349号として制定され、1876年(明治9年)に全部改正された。 == 概要 == === 制定までの経緯 === 1870年に、当時の大蔵少輔(次官)であった伊藤博文はアメリカ合衆国の首都ワシントンで銀行制度を視察し、その成果を反映した物である。 それまで日本は兌換貨幣(金との交換が保証された通貨)を使用していたが、まだ経済基盤が弱かった日本からは金貨の海外流出などで金準備不足が深刻化しており、兌換制度を止める必要があった。1871年(明治4年)に新貨条例が制定され、「円」を貨幣とする最初の近代貨幣制度が導入された。しかし同時に採用された金本位制は金準備不足のために実際には銀貨が主に使われ、1876年(明治9年)に事実上、1878年(明治11年)に正式に、金銀複本位制が確立し、1885年(明治18年)に銀本位制に移行し、日清戦争後の1897年(明治30年)にようやく金本位制に復帰した。 その後、イギリス型の中央銀行制度を推す当時の大蔵少輔吉田清成と、アメリカ型の分権方式銀行制度を推す伊藤博文との論争の末、この時は伊藤が勝ち、アメリカにおいて1864年に財務長官サーモン・チェイス(Salmon Chase)によって制定された国法銀行法(:en:National Bank Act(ナショナル・バンキング条例))を参考に、1872年(明治5年)に国立銀行条例が制定された。 当時の世界の銀行制度の潮流として、イングランド銀行を代表とする中央銀行制度と、アメリカの国法銀行を代表とする反・中央銀行制度としての分権方式銀行制度があった。 19世紀のアメリカは中央銀行制度を「貨幣発行権を一つの機関が独占することは非民主主義的である(なぜなら中央銀行を支配する者に金融を通じて権力が集中するから)」として採用しておらず、貨幣発行権を多数の発券銀行に分散させることで、権力の集中を防止し、かつ、発券銀行間の競争を通じての健全な経済運営を企図していた(第一合衆国銀行・第二合衆国銀行という例外はあった。なお、中央銀行の不在により、1907年にロンドンでの米銀の手形割引拒否に端を発する恐慌が起き、アメリカ合衆国内の決済システムが混乱した。その後、1913年にアメリカに中央銀行制度に類する連邦準備制度が導入された)。 これにより、渋沢栄一が1873年(明治6年)に日本初の国立銀行である第一国立銀行(現:みずほ銀行)を設立。その後もこの条例を基に民間によって数多くの国立銀行が設立された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「国立銀行条例」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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