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國見山 悦吉(くにみやま えつきち、1876年(明治9年)3月28日 - 1924年(大正13年)9月25日)は、大相撲の力士である。最高位は大関。高知県土佐郡(現在の高知市)出身。本名は松下→河野→松下悦吉。身長178cm、体重132kg。得意手は上突っ張り、右四つ、寄り。 == 来歴 == 愛媛県の炭鉱に出稼ぎしていたところその巨体と怪力を知った板垣退助が誘い友綱部屋に入門、明治27年1月場所、鏡川の四股名で初土俵。明治32年1月場所新十両、明治33年1月場所新入幕。明治34年5月場所、7勝2敗の好成績で明治35年1月場所小結、明治36年1月場所、関脇に昇進し8勝1敗、その後、好成績が続き明治38年1月場所、9戦全勝の最優秀成績をあげ、翌5月場所に荒岩とともに大関に昇進した。 恰幅がよく均整のとれた体格で離れてよし組んでよしの取り口。小兵力士を扱うのが上手く、下位に対する取りこぼしも少なく実力は横綱級と言われ昇進を期待されたが、明治41年5月に膝を脱臼してからは衰えに向かい果たせなかった。膝の脱臼は癖になってしまい思うように活躍できず、晩年は引分(取組中に脱臼しての痛分も含む)が増えた。明治45年5月場所を最後に引退、年寄放駒を襲名。 大正6年11月29日の夜に國技館が炎上した際には当直だったため即座に消火器を持って消火活動に当たった。火災は非常に激しいものであり、大火傷で昏睡、浅草の明治病院に搬送され回復後にはその行動を賞賛された。大正9年5月、場所後に廃業。大正13年9月25日に亡くなった。 色白の美男力士として人気が高く、明治43年9月に毎日電報社が日本一の美男を決めようとした際には、候補とされ見事当選した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「國見山悦吉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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