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国際軍団 : ウィキペディア日本語版
国際軍団[こくさいぐんだん]
国際軍団(こくさいぐんだん)は、かつて存在したプロレスのユニット。率いたのはラッシャー木村である。国際プロレス崩壊後、その残党を中心に結成され、新日本プロレスに参戦。「はぐれ国際軍団」とも呼ばれた。
ここではラッシャー木村が全日本プロレスへ移籍後に結成されたユニット「国際血盟軍」についても述べる。
== 概要 ==

1981年10月8日、蔵前国技館で「新日本プロレス国際プロレス」の全面対抗戦が行われた。その直前の1981年8月に国際は倒産して興行機能を失っており、そこで国際の代表であった吉原功は、新日本との対抗戦を模索したものだが、この大会のポスターにも名を連ねていたマイティ井上鶴見五郎など多くの選手が反発し、井上、阿修羅・原冬木弘道(後のサムソン冬木)などは全日本プロレスへ移籍し、鶴見、マッハ隼人は海外遠征するなどしたため、残党としてラッシャー木村アニマル浜口寺西勇の3人が新日本へ乗り込んだ。
この「10・8蔵前決戦」にて、木村、浜口、寺西に、かつての国際プロレスのエースだったストロング小林(当時新日本所属)を加えた4人が「国際軍団」の結成を宣言、「我々はプロレス界の(新日本・全日本を向こうに回しての)第3勢力になる」とアピールした(最終的には小林はリング上で共闘することなく腰痛のため引退)。
これに先駆けた1981年9月23日、木村と浜口は新日本の田園コロシアムでの興行に姿を現し、決意表明。この際に、マイクを向けられた木村は「こんばんは…」と第一声を発してファンからの苦笑を誘った一方、浜口はまずリングサイドにいた元国際プロレスの剛竜馬を挑発した後に〔「忘れじの国際プロレス」p17 ベースボール・マガジン社〕「俺たちが勝つんだ! 10月8日を見てろ!」とアジテートし、うって変わってファンからのヒートを買った。これと前後して国際軍団は、スポーツ会館(現:GENスポーツパレス)や秩父でトレーニングを行っていた〔「忘れじの国際プロレス」p57 ベースボール・マガジン社〕。なお木村は1975年6月にアントニオ猪木に挑戦状を叩き付けており〔『忘れじの国際プロレス』P111 ベースボール・マガジン社〕、猪木戦は6年越しに実現することになった。
そんななかで“10・8蔵前”で行われた猪木と木村の一騎打ちは、腕ひしぎ逆十字固めを極めたままレフェリーのブレイク要請を無視したとして、猪木が反則負けとなり、遺恨を残す形となった。
そこで国際軍団は、新日本に対して再度の挑戦を執拗に迫った。そのアピールのために私服姿での会場への乱入も辞さないようになり、時には実況の古舘伊知郎さえ襲撃した。ここに至るまでの過程のなかで、いつしか新国際軍団はヒール軍団扱いをさせられ、マスコミから「はぐれ国際軍団」、「剣が峰に立たされた崖っぷち国際軍団」などの汚名を着せられていく。
1981年11月5日、前回と同じ蔵前国技館でランバージャック・デスマッチとして行われた、猪木と木村の再戦は、猪木が腕ひしぎ逆十字固めで執拗に木村を攻め立て、骨折寸前を察知した国際軍団セコンド陣のタオル投入で、今度は木村のTKO負け。そして翌1982年9月21日に大阪府立体育会館ヘア・ベンド・マッチ(敗者髪切りマッチ)として行われた両者の一騎打ちは、試合は猪木が制したものの、勝負が決まる前の場外乱闘の際、リングサイドにいた小林からハサミを渡された浜口が、猪木の髪をハサミで切り刻んでしまうという暴挙をはたらいた。それどころか、敗れたはずの木村を始めとする国際軍団は、勝負が決まるや否や会場から逃走。これには猪木も「男の恥を知れ! てめえら永久追放にしてやる!」と激怒、会場内も不穏な空気に包まれた。
それでもなお猪木との完全決着をあきらめなかった国際軍団は、試合への乱入を先鋭化させ(猪木を控室へ拉致し暴行するなど)徹底的にアピールを繰り返し、ついには猪木が木村・浜口・寺西の3人を一度に相手にするという変則タッグマッチを実現させた。1982年11月4日と、1983年2月7日の2度にわたり行われたこの試合は、猪木は3人全員を倒さなければ勝利とならず、一方の国際軍団は誰かが猪木から1本取ればその時点で勝利となるルールであった。結局猪木は2戦とも、3人全員を仕留めることができず、形の上では国際軍団の2連勝で終わった。
その後、木村と浜口が、些細な技の誤爆から仲間割れを起こし、浜口は当時一大勢力となっていた「革命軍」の大将の長州力と結託。この2人により革命軍団を再編する形で「維新軍」(後にジャパンプロレスに発展)が結成され、浜口は軍団の副将格に収まる。そして後れて寺西も、タイガーマスクを標的とした小林邦昭との共闘をきっかけに維新軍へと合流した。
孤立無援となった木村は、アブドーラ・ザ・ブッチャーバッドニュース・アレンなどの外国人勢と共闘の構えを見せながらも、“国際プロレス”にこだわり続けたが、1984年UWFの結成に参加、ここに新国際軍団は事実上消滅した。
その後木村はUWFを離脱、同1984年末に行われた全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に、ジャイアント馬場の“ミステリアスパートナー”として参戦したものの、馬場と袂を分かち、木村と同時期にUWFを離脱した剛竜馬、国際崩壊後一匹狼として全日本に上がっていた鶴見五郎、同じ元国際の高杉正彦アポロ菅原と「国際血盟軍」を結成し、馬場をターゲットとしたほか、ジャパンプロレス軍団として全日本に参戦していた元新国際軍団メンバーの浜口・寺西、木村よりも先に新日本移籍を拒否して全日本に移籍し、国際血盟軍に参加しなかった井上や冬木といった国際出身者とも対決することになる(後述)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「国際軍団」の詳細全文を読む



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