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園 基顕(その もとあき)は鎌倉時代中期の公卿。参議、右衛門督、正二位。父は参議園基氏。母は左大臣大覚寺隆忠の娘。初名は基世。 父基氏が若くして辞官出家したため、基顕は昇進が遅く苦労した。 == 経歴 == 以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。 寛元4年(1246年)3月8日、叙爵〔この時、基世。〕。建長4年(1252年)1月23日、従五位上に昇叙〔この時、基顕と改名。〕。同年4月9日、侍従に任ぜられる。建長5年(1253年)12月5日、左少将に任ぜられる。建長6年(1254年)1月13日、常陸権介を兼ねる。建長7年(1255年)1月5日、正五位下に昇叙〔安嘉門院当年御給。〕。康元元年(1256年)1月26日、従四位下に昇叙〔室町院建長6年御給。〕。同年2月6日、左少将に改めて任ぜられる。正嘉元(1257年)年閏3月27日、右中将に転任。同年4月11日、左中将に転任。正嘉2年(1258年)4月6日、従四位上に昇叙。同年7月21日、備前守を兼ねる〔大宮院御分。〕。正元元年(1259年)1月6日、正四位下に昇叙〔室町院当年御給。〕。同月21日、播磨守を兼ねる〔院御分。〕。弘長2年(1262年)11月4日、得替。 建治元年(1275年)12月26日、蔵人頭に補される。同時に禁色を許される。弘安元年(1278年)3月1日、母の喪に服す。同年10月4日、蔵人頭を止める。同年8月7日、復任する。弘安3年(1280年)3月8日、蔵人頭に還補され、同月13日に禁色を許される。 弘安4年(1281年)2月1日、参議に任ぜられる。弘安5年(1282年)4月8日、従三位に叙される。11月28日、父基氏の喪に服す。弘安6年(1283年)3月28日、復任した。弘安7年(1284年)1月13日、参議を辞した。同月16日、右衛門督に任ぜられ、19日には本座を許された。5月6日には正三位に昇叙。正応元年(1288年)7月11日、右衛門督を止める。同月16日、従二位に昇叙。正応4年(1291年)3月25日、正二位に昇叙。永仁2年(1294年)11月18日、出家。文保2年(1318年)12月26日、薨去。享年81。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「園基顕」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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