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圓鍔勝三 : ウィキペディア日本語版
圓鍔勝三[えんつば かつぞう]
圓鍔 勝三(えんつば かつぞう、1905年11月30日 - 2003年10月31日)は、広島県出身の彫刻家文化功労者文化勲章受章、広島県名誉県民、尾道市名誉市民。
== 来歴・人物 ==
広島県御調郡河内村(現・尾道市御調町)出身。本名は勝二。河内尋常高等小学校高等科を卒業後、京都の彫刻師・石割秀光の内弟子になる。京都市立商工専修学校、関西美術院彫塑を学ぶ。
しかし、単なる職人で終わることを嫌い上京し日本美術学校彫刻科へ入学。同校在学中の1930年、第11回帝展に「星陽」を出品し初入選。日本美術学校を卒業後、彫刻家の澤田政廣に師事。1932年、母が娘に紅を差す何気ない日常の一瞬を描写した「初夏」を第3回文展に出品し特選。
戦後、圓鍔の彫刻は高い評価を受ける。1946年、第2回日展で「砂浜」が特選。1947年、第3回日展で「しろうさぎ」が特選。1950年、第6回日展で「土器を持つ女」が特選。
1950年、多摩美術学校(多摩美術短期大学教授に就任。1951年、日展審査委員に就任。1953年、多摩美術大学彫刻科教授に就任(その後、同大学彫刻科名誉教授の称号を得る)。
1960年、名を勝三に改名。1962年、日展評議員に就任。1965年、第8回日展に出品した「旅情」が文部大臣賞、日本芸術院賞(1966年〔『朝日新聞』1966年4月7日(東京本社発行)朝刊、14頁。〕)を受章。1968年、日本美術家連盟委員、日本彫塑家協会委員長に就任。
1970年、日本芸術院会員。1971年、日展常務理事に就任。同年、紺綬褒章受章。1976年、勲三等瑞宝章受章。
1980年、日本彫刻会理事長に就任。同年、神奈川県文化賞受賞。1981年、日展顧問に就任。同年、御調町名誉町民第1号に登録される。1982年、文化功労者。1988年、文化勲章を受章。1989年、広島県名誉県民に登録される。同年、自伝「わが人生」を出版。
1991年、川崎市名誉市民に登録される。1993年、伊勢神宮に「神馬」を奉納。同年、圓鍔勝三彫刻美術館、圓鍔記念公園が開館。1997年自伝「続・わが人生」を出版。
2003年10月31日、鬱血性心不全のため死去。
圓鍔はときに古典的な彫塑の要素を離れデフォルメを強調した作品や、彩色を施した彫刻、石や金属、ステンレスなど複数の素材を組み合わせた作品を発表した。自らが見た夢を題材に選ぶなど抽象的な表現にも果敢に挑戦した。また、作品には独特なタイトルを付け独自性を強調した。常に新たな表現を模索し、晩年まで作家活動を行い、生涯創作意欲が枯れることはなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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