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『土佐日記』(とさにっき)とは、平安時代に成立した日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を虚構を交えて綴ったもので、成立は承平5年(935年)頃といわれる。古くは『土左日記』と表記されていた〔定家本や為家本を含む多くの古写本では題は「土左日記」となっている。さらに定家本の奥書には「有外題 土左日記 貫之筆」とあり、これによれば貫之の自筆で「土左日記」の外題があった事になる。〕。 == 内容 == 日本文学史上、おそらく初めての日記文学である。紀行文に近い要素をもっており、その後の仮名による表現、特に女流文学の発達に大きな影響を与えている。『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更級日記』などの作品にも影響を及ぼした可能性は高い。 延長8年(930年)から承平4年(934年)にかけての時期、貫之は土佐国に国司として赴任していた。その任期を終えて土佐から京へ帰る貫之ら一行の55日間の旅路とおぼしき話を、書き手を女性に仮託し、ほとんどを仮名で日記風に綴った作品である。57首の和歌を含む内容は様々だが、中心となるのは土佐国で亡くなった愛娘を思う心情、そして行程の遅れによる帰京をはやる思いである。諧謔表現(ジョーク、駄洒落などといったユーモア)を多く用いていることも特筆される。 成立の過程は不明である。貫之はおそらく帰京の途上で漢文の日記をつけ、土佐日記を執筆する際にはそれを参照したと考えられるが、土佐日記そのものは虚構を交えたものであり、また明らかに実録の日記そのものではなく文学作品である。 小松英雄は、この日記は女性に仮託したものではなく、冒頭の一節は「漢字ではなく、仮名文字で書いてみよう」という表明を、仮名の特性を活かした技法で巧みに表現したものだとしている〔小松英雄 『古典再入門 『土左日記』を入りぐちにして』 笠間書院、2006年〕。ただしこの説は広く受け入れられるには至っていない。娘を亡くした悲しみを書くにあたって、「男が日記を書く場合、普通は漢文です。しかし漢文では、「泣血(きゅうけつ)」のような固いことばでしか悲しみを表現できません。自分の悲しみ、細やかな心のひだ、そういうものでは書き尽くせない。そう思ったときにおそらく、貫之は仮名で書くことを思いついたのです」という人もいる〔田辺聖子『古典まんだら』上(新潮社)p.60f。〕。 橋本治は仮名文字を使用した理由について、紀貫之が歌人であったことを挙げている〔橋本治 『これで古典がよくわかる』〈『ちくま文庫』〉 筑摩書房、2001年〕。当時の男性の日記は漢文であったが、和歌は男女ともに仮名文字を用いていた。そのため和歌の専門家でもある貫之が自分の得意な文字である仮名文字を用いた、というものである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土佐日記」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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