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土佐物語[とさものがたり] 『土佐物語』(とさものがたり)は、土佐国の戦国大名・長宗我部氏の興亡を描いた軍記物。作者は吉田孝世。宝永5年(1708年)成立。 == 概要 == 『平家物語』や『太平記』を「中央の軍記物」とすれば、『土佐物語』は「地方の軍記物」に位置付けられる〔岩原(1997)p.4〕。原本は存在せず、「和学講談所本」(和学本・全20巻、享保5年写)、「森文庫本」(森写本・全13巻、寛政9年写)、「山内文庫本」(山内本・全21巻、文政2年写)、「恩田稿本」(恩田本・全20巻、嘉永2年写)、「内務省本」(内務本・全30巻、明治9年写)、修史館本(修史本・全20巻、明治15年写)の6種の写本が存在する〔。 本文中には、大鬼といった怪異が登場したり、文禄の役においては大蛇が現れるなど、史実とは別に脚色も見られる。また、巻第19「元親卒去 雪蹊寺の事」には、慶長4年(1599年)に長宗我部元親が正四位になったと記されているが、史実では死後に正五位を与えられたものであり〔岩原(1997)脚注より〕、誤りも含まれる。終盤(巻第20)では、長宗我部盛親に代わって土佐藩主となった山内一豊についての事績や武功、逸話(戦場で得た名槍)などについても記されている。 大坂の陣における見方・批評としては、藤堂和泉守と盛親が対陣し、井伊掃部頭が木村長門守と対陣していたが、長門守が突然討死し、掃部頭が高虎と合流したため、盛親は討ち負けしてしまい、「大阪の落城は盛親に始まる」「大阪の負け軍(いくさ)は盛親第一なり」として、敗北の遠因を長宗我部氏に求めている。 『土佐国古城伝承記』を基に記された経緯があり、各所に文飾が多くみられることから近世の学者である谷秦山から内容に信頼性を疑われており、現代の研究者の間でも歴史資料としての評価は高くないとされる〔『花園史学 第36号』論文内、平井上総 『一領具足考』、2015年11月 花園大学史学会〕。
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