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土居 まさる(どい まさる、1940年8月22日 - 1999年1月18日)は、日本のフリーアナウンサー、タレント、司会者。元文化放送アナウンサー。本名、平川 巌彦(ひらかわ よしひこ)。 == 来歴 == 愛知県出身〔『日本人名大辞典』、講談社〕〔コトバンク 土居まさる 〕。実家は天城山に位置する旅館〔2011.09.23 土居まさるの「私の歴史館」 〕。静岡県立沼津東高等学校、立教大学経済学部卒業後、1964年文化放送入社。 入社後数年は、野球中継実況アナウンサーとして活躍していた。 その後、深夜放送のディスクジョッキーに転向、彼が最初に担当した「真夜中のリクエストコーナー」は、日本初の深夜放送ラジオ番組と言われる。その後、「ハローパーティー」「セイ!ヤング」などのパーソナリティで人気を博す。歌手デビューもした。 また、1969年からは、文化放送と資本的に関係のあるフジテレビの番組(スター千一夜、テレビナイトショー、お昼のゴールデンショー)にも出向という形で司会を担当し、テレビ界にもこの頃から本格進出するようになる。 1970年に文化放送を退社、フリー司会者に転向し、文化放送でのレギュラー番組を続ける傍ら、1971年~1982年日本テレビ「TVジョッキー」の司会に抜擢され、本格的にフリーに転向後としてのテレビデビューとなった。その軽快な話術が当時の若者層に受け、一躍全国区となる。さらに、フジテレビ系「プロ野球ニュース」週末キャスター、TBS「スーパーダイスQ」などのクイズ番組、そして1979年~1994年の16年間にわたり、テレビ朝日「象印クイズ ヒントでピント」の司会などでも名を馳せる。この他、フジテレビ系「オールスター紅白大運動会」と「オールスター紅白バレーボール大会」の総合司会(後者は実況も兼任)も務め、フジテレビ系芸能人対抗スポーツバラエティ番組の顔となる。 母校のある、静岡県沼津市の『燦々ぬまづ大使』(第1期)を務めていた〔歴代の燦々ぬまづ大使の皆さん 静岡県沼津市 ぬまづの人参照〕 。 その後はテレショップの司会などを担当してきたが、1998年からは古巣・文化放送での久しぶりのラジオ番組として出演した「土居まさるのラヂオデイズ」が注目を集めていた。しかし、同年9月下旬に体調を崩し、病院でがんの告知及び「余命半年」の診断を受けていた。暫くは入退院を繰り返しながら仕事を続けていたが、同年12月26日の同ラジオ番組の収録が生涯最後の仕事となった〔土居の逝去後は後輩の文化放送アナウンサーの中田秀作が代役を務めた。〕 。翌1999年1月18日、膵頭部(すいとうぶ)がんにより永眠。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土居まさる」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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