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土屋 佳照(つちや よしてる、1926年2月25日 - 2004年11月2日)は、鹿児島県肝属郡串良町(現・鹿屋市串良町)出身の官僚、政治家。鹿児島県知事、自治事務次官を歴任。 == 来歴・人物 == 鹿児島県立第二中学(現・鹿児島県立甲南高等学校)、第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)、東京帝国大学法学部を卒業。自治省に入省し、税務局長、財政局長などを経て、自治事務次官に就任。 その後、1989年の県知事選挙に出馬。当時、金丸知事・鎌田知事に続き、鹿児島県出身とは言え、三代続けて自治事務次官からのいわゆる“落下傘候補”となったが、選挙においては大勝し知事に就任した。1996年まで2期にわたり鹿児島県知事を務めた。 しかし、在任中に8.6水害が発生。姶良郡溝辺町(現在の霧島市溝辺地域)にある鹿児島空港から鹿児島市内の鹿児島県庁に向かっており、国道10号線竜ヶ水付近を公用車で移動中に、土石流で前後を寸断され他の通行車両やJR乗客と共に孤立し、災害対策本部に対して船による救助を車載電話で指示し、孤立者の救助の後に鹿児島県の漁業取締船で鹿児島県庁に向かった〔<55>「自分の身は自分で」意識大事 - 読売新聞(2013年5月29日付)〕。このとき鹿児島市中心を流れている甲突川が氾濫し、五石橋のうち新上橋・武之橋が流失する事態となった。国の激特事業により河川改修を決定した際に、流出を免れた玉江橋・西田橋・高麗橋を現地保存を希望する市民団体のハンガーストライキが起こり、その後3石橋は移設保存する事を決定した。 翌年の1996年1月に県議会開会日の県庁知事室で病気に倒れ、同年6月26日に辞職した〔歴代公選知事名簿(鹿児島県) - 全国知事会、2013年10月2日閲覧。〕。5月15日から鹿児島県知事選挙が行われた7月31日まで副知事であった須賀龍郎が代理を務めた〔鹿児島県告示第902号の2(知事の職務代理、平成8年5月14日発行「鹿児島県公報号外」所収、)〕。 在任中には付帯工事を合わせ総事業費647億円となる鹿児島県庁舎が建てられている。これは県内で最も高い建築物であり、完成した庁舎の中では東京都庁舎に次ぐ予算が費やされた。なお、辞任後、官製談合疑惑が持ち上がったが東京に転居し2004年11月2日、肺炎のため逝去。享年79(78歳没)。叙正四位、授旭日重光章。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土屋佳照」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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