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土屋 光金(つちや みつかね、1864年12月1日(元治元年11月3日) - 1925年3月20日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍中将。貴族院議員、男爵。 ==経歴== 元治元年11月3日愛知県に生まれる。土屋光春陸軍大将の長男。慶應義塾幼稚舎を経て、1886年(明治19年)12月、海軍兵学校(12期)を卒業し、1888年(明治21年)1月に海軍少尉任官。1891年(明治24年)12月、佐世保軍港司令官伝令使となり、「松島」分隊長、呉水雷隊攻撃部艇長を経て、1894年(明治27年)7月、常備艦隊水雷艇隊艇長に就任。日清戦争に出征し、さらに常備艦隊第1水雷艇隊艇長となった。1895年(明治28年)7月、呉水雷隊攻撃部艇長に着任し、水雷術練習所教官兼分隊長に転じ、1897年(明治30年)12月、海軍少佐に昇進した。 1898年(明治31年)3月、「笠置」回航委員に発令されアメリカに出張し、同水雷長、呉鎮守府艦隊参謀、軍令部第2局員、兼陸軍大学校兵学教官を務め、1900年(明治33年)9月、海軍中佐に進級。1903年(明治36年)9月、常備艦隊第3駆逐隊司令に着任し、第1艦隊駆逐隊司令として日露戦争に出征。第3艦隊参謀に転じ、1905年(明治38年)1月、海軍大佐に昇進し横須賀鎮守府付兼横須賀工廠艤装委員となった。 1905年4月、「豊橋」艦長に着任し、馬公要港部参謀長、「秋津洲」「春日」「相模」「鹿島」の各艦長、舞鶴海兵団長、横須賀鎮守府参謀長を歴任。1911年(明治44年)12月、海軍少将に進級し舞鶴水雷団長となった。 1913年(大正2年)3月、舞鶴水雷隊司令官となり、呉水雷隊司令官、呉鎮守府艦隊司令官、第3艦隊司令官、軍令部出仕、第1水雷戦隊司令官を経て、1915年(大正4年)12月、海軍中将に進み第2水雷戦隊司令官に着任。1916年(大正5年)4月、大湊要港部司令官となり、将官会議議員を経て、1919年(大正8年)6月に待命、翌年3月、予備役に編入された。 1920年(大正9年)12月、父の死去により男爵を襲爵。1922年(大正11年)3月から死去するまで貴族院議員を務め、公正会に所属して活動した。1925年(大正14年)3月20日病没。東京都の多磨霊園に葬られる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土屋光金」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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