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土屋 弘光(つちや ひろみつ、1932年11月25日 - )は中日ドラゴンズに所属したプロ野球選手(内野手)。引退後は球団マネジャー・スカウト・コーチを務めた。野球解説者。広島県福山市出身〔#テク投守6頁〕。 == 来歴・人物 == 盈進商業から明治大学を経て1956年中日入団。大学時代は主に二塁手、トップバッターとして活躍して東京六大学リーグで3度、全日本大学野球選手権大会で2度の優勝を経験した〔東京スポーツ・ 2008年5月3日付 「ネット裏 越智正典」〕。しかし中日入団後の静岡県伊豆大仁での春季キャンプ三日目に頭部に死球を受け頭蓋骨骨折の重傷を負う〔。6ヶ月入院した後も後遺症は長く残り、結局プロ野球選手として働く事なく二年後現役を引退した〔。なお、土屋の頭部死球が、ヘルメット着用義務付けのきっかけとなった。 引退後は中日フロント入り。マネージャー(1958-1959年)、スコアラー(1960-1961年)の後、1962年から1967年まで二軍コーチを務める〔。1968年、中日にコーチに来ていたロサンゼルス・ドジャースのロイ・ハートフィールドに熱血と才を買われ、ベロビーチキャンプに招かれるなど、約半年アメリカに滞在した〔〔。その後も5度渡米しアメリカの野球を学んだ〔。 1969年ロッテ二軍守備・走塁コーチ、1970年-1978年ロッテ一軍守備・走塁コーチ、1979年-1980年中日一軍ヘッドコーチ、1981年大洋一軍守備・走塁コーチ、1987年ロッテ一軍守備・走塁コーチ、1988年-1990年ロッテ二軍守備・走塁コーチを務めた〔。 1962年、史上初の春夏連覇を達成した作新学院の夏の優勝をもたらした加藤斌投手を獲得する為、中日はコーチだった独身の土屋とミス・ユニバース栃木県代表で美人の加藤の姉を見合いさせ、加藤に近付くというウルトラCを繰り出した。スカウトでもない土屋は田村和夫スカウトに同行して再三、加藤家を訪ね作戦は成功。巨人志望ともいわれた加藤は逆転中日入団、及び土屋と加藤の姉は結婚した。当時の雑誌に"姉と弟を同時にスカウトした土屋コーチ"と書かれた。なお加藤は2年後、自動車事故により20歳で逝去した〔石川泰司『消えた男たち』毎日新聞社、1986年〕。 ロッテ守備コーチ時代には、遊撃手としてスローイングが一定しない山崎裕之を二塁手にコンバート〔新宮正春『プロ野球を創った名選手・異色選手400人』講談社文庫、1999年、P.223〕。ロッテヘッドコーチ時代の1970年には、開幕第一戦にベテランで堅守の三塁手・前田益穂一番起用を濃人渉監督に進言、起用に応えた前田が激走三塁打を放ち、この年のリーグ優勝への道を拓いた〔。 1982年-1986年、1991年-2009年までTBCラジオの野球解説者を務めた。現在はマスターズリーグ・東京ドリームスのコーチや社会人野球チーム・NTT信越硬式野球クラブの総監督も務めている。TBCラジオでの解説は東北楽天ゴールデンイーグルス発足前(ロッテの準本拠時代)から務めており長いキャリアとなる。出番はそれ程多くないが大リーグ事情にも詳しく貴重な存在であった。 2012年3月31日の開幕2試合目、TBCテレビで行われたテレビ中継(TBC開局60周年デー)に、元TBCのアナウンサーである吉岡徹也と共に登場し、6回の1イニング限定で実況吉岡徹也、解説土屋弘光のコンビが復活した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土屋弘光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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