翻訳と辞書
Words near each other
・ 土岐隼一
・ 土岐雄三
・ 土岐頼世
・ 土岐頼之
・ 土岐頼元
・ 土岐頼功
・ 土岐頼員
・ 土岐頼寛
・ 土岐頼寧
・ 土岐頼布
土岐頼康
・ 土岐頼徳
・ 土岐頼忠
・ 土岐頼旨
・ 土岐頼次
・ 土岐頼武
・ 土岐頼殷
・ 土岐頼潤
・ 土岐頼煕
・ 土岐頼益


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

土岐頼康 : ウィキペディア日本語版
土岐頼康[とき よりやす]

土岐 頼康(とき よりやす)は南北朝時代武将守護大名室町幕府侍所頭人、美濃尾張伊勢守護。土岐氏の一族土岐頼清の長男で土岐頼貞の孫。頼雄康貞直氏頼忠の兄。子に娘(二条良基室)。養子に康行
== 生涯 ==
父の陣没後、土岐氏惣領の叔父頼遠と共に若くして各地を転戦して南朝方と戦った。興国3年/康永元年(1342年)に叔父が光厳上皇に狼藉を働いたため処刑されると、惣領を継ぎ美濃守護となった。正平8年/文和2年(1353年)、本拠地を長森城から革手城に移し、美濃の豪族斎藤氏を服従させた。土岐氏一族が南朝と結んで反乱を起こすがこれを打ち破って美濃を平定している。
頼康は「桔梗一揆」と呼ばれる土岐氏一族の強力な武士団を有しており、弟の頼雄、康貞、直氏、頼忠らを美濃各地に配して結束を強化した。観応の擾乱では室町幕府初代将軍足利尊氏を常に支持して武功があり、その功績によって正平6年/観応2年(1351年)に尾張守護職を与えられた。翌正平7年/文和元年(1352年)の八幡の戦いに参戦、正平8年/文和2年(1353年)、南朝方に攻められた足利義詮後光厳天皇を奉じて京都を脱出すると領国の揖斐郡小島に迎え、頓宮を造営している(美濃行幸)。揖斐郡に八重垣神社が創建されたのもこの時期である。
正平8年/文和2年から翌年まで侍所頭人を務め、正平9年/文和3年(1354年)に評定衆に列する。正平13年/延文3年(1358年)に尊氏が死去すると出家して善忠と号した。正平15年/延文5年(1360年)に伊勢守護職を与えられ、頼康は東海道の要衝3ヶ国の守護を兼ねて土岐氏の最盛期を築き上げた。文武に優れ『新千載和歌集』・『新拾遺和歌集』・『新後拾遺和歌集』など勅撰和歌集に多くの和歌を残している。
頼康は尊氏以来の宿老として幕政に参与して重きをなした。3代将軍義満管領細川頼之と対立して勝手に本国へ帰国し、義満から追討令を受けるが謝罪して許され政権に復帰している。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変において斯波義将佐々木高秀らと共謀し、義満に進言して政敵の細川頼之を追放させた。
元中4年/嘉慶元年12月25日(1388年2月3日)、70歳で死去。甥で養子としていた康行が惣領を継いだが、将軍権力の強化を図る義満は勢力の強すぎる土岐氏一族の内紛を画策し、康行は挙兵に追い込まれ、幕府軍の追討を受けて没落した(土岐康行の乱)。康行の後は末弟の頼忠(康行の叔父)が美濃守護に任じられたが、土岐氏の力は大きく減じ、再び美濃一国の守護に逆戻りしてしまった。
法名は建徳寺節叟善忠。墓は岐阜県揖斐川町瑞巌寺

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「土岐頼康」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.