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土岐頼純 : ウィキペディア日本語版
土岐頼純[とき よりずみ]

土岐 頼純(とき よりずみ)は戦国時代大名美濃国守護大名である。土岐頼武の嫡男で母は朝倉貞景の三女。妻は斎藤道三の娘。
== 生涯 ==
父頼武の没後も大桑城に拠って叔父である守護土岐頼芸及び斎藤道三と対峙する。しかし、味方であった近江六角定頼天文5年(1536年)に頼芸方に転じ、更に守護代斎藤利茂も定頼の仲介で頼芸方になるなど次第に劣勢に立たされる。
天文8年(1539年)正月、頼芸との間で和議が成る。しかし、これは一時的なもので、裏では斎藤道三による調略が進められていた。天文12年(1543年)7月以降、祐向城、別府城などの大桑城の支城は相次いで陥落、遂に大桑城も落ち、頼純は母の実家である朝倉氏を頼って越前へ亡命した。
天文13年(1544年)8月、頼純は朝倉孝景(宗淳)と尾張織田信秀の支援を得て、美濃再入国を企てる。しかし、斎藤道三は6月にはこの情報をつかんでいたらしい。朝倉軍は朝倉宗滴が総大将となり、徳山谷を南下、9月19日に赤坂で斎藤軍と合戦、これに勝利し六角氏との連絡路を遮断した。一方、織田軍は道三の籠もる稲葉山城を正面攻撃、9月22日に総攻撃を仕掛けたが、城下での斎藤勢の防戦もあり、夕刻になって攻撃を中止し、撤収にかかったところを攻撃され大敗した。この敗戦によって頼純は朝倉軍とともに再び越前に引き揚げた。
天文15年(1546年)秋、再び頼純と頼芸・道三との間で和議が成った。朝倉孝景、織田信秀の室町幕府への働きかけに加え、頼芸の同盟者である六角定頼の仲介もあったらしい。9月、頼純は菩提山城を経て大桑城へ入城した。和議の条件として、頼芸の隠退と頼純の美濃守護職就任があったという。また、道三の娘との婚姻も実現した。
しかし、守護となって一年余り後、天文16年(1547年)11月17日、頼純は急死した。享年24。おそらく道三の手にかかって殺害されたものであろう。
ただし、「土岐家譜」では、享年49となっており、法名も南泉寺殿玉岑珪公大禅となっている。
父・頼武(政頼)の別名が頼純とも言われているため、恐らく「土岐家譜」で享年49となっている頼純は、父・頼武のことだと思われる。頼武の享年が49前後のため。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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