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土岐 頼遠(とき よりとお)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名。美濃守護。土岐頼貞の六男。兄弟に頼清、頼基、頼明など多数。子に氏光、光明、光行、直頼。 == 生涯 == 父と共に足利尊氏に仕えて各地を転戦した勇将で「婆娑羅大名」として知られる。延元元年/建武3年(1336年)の多々良浜の戦いでは菊池武敏、同年の京都での新田義貞、延元3年/暦応元年(1338年)の北畠顕家との青野原の戦い、さらに新田義貞の弟・脇屋義助など多くの南朝側の武将と戦い奮戦した。 『太平記』によれば青野原の戦いでは顕家率いる奥州勢の50万騎とも言われた大軍(誇張とも)を相手に室町幕府軍が総崩れになる中で、頼遠は精兵1000騎を率いて鬼神のごとく奮戦したが、防戦には失敗し、一時頼遠も行方不明となった。しかしながらもこの際の北畠軍の疲弊は大きく、後の進路転換・敗北の原因になったとされ、頼遠も高く評価され、その武名はさらに高まった。 延元4年/暦応2年(1339年)、父の死により家督を継いで惣領となり、美濃守護に就任する。同年に本拠地を土岐郡から厚見郡に移動、守護所を長森城に定める。その後も各地を転戦して武功を挙げたが、あまりに挙げすぎた武功をいいことに奢り高ぶることも少なくなく、興国3年/康永元年(1342年)9月6日、笠懸の帰りに行き会った光厳上皇の牛車に対して、酒に酔っている勢いに任せて「院と言うか。犬というか。犬ならば射ておけ」と罵って牛車を蹴倒す(矢を射たとも)という狼藉行為を行なった。これを知った尊氏の弟・足利直義は激怒して頼遠逮捕を命じる。頼遠は一度は美濃に戻って謀反を計画するものの失敗、夢窓疎石のいる臨川寺に逃れ助命嘆願をした。また各所から助命嘆願が相次ぎ足利直義は国師の口添えならば頼遠は厳罰とするが土岐子孫は許すという返事をしたため頼遠は臨川寺を囲んでいた幕府軍に捕らえられ、侍所頭細川頼氏に渡され12月1日に京都六条河原にて斬首された。 婆娑羅大名には多かれ少なかれ朝廷などの旧来の権威を軽んじる風潮があったが、直義にとって光厳上皇は兄・尊氏の征夷大将軍任命とそれを行った光明天皇の即位に対する大義名分を保障する唯一の権威(治天の君)であり、その権威を揺るがす行為を容認することは室町幕府の正統性そのものを否定することにもつながりかねない事と考えていた。そのため、兄と幕府の正統性を守るためにも光厳上皇の権威の保持を功臣の生命よりも重んじたのである。 夢窓疎石の言によれば、頼遠は周囲からその軍才を認められており、処刑される直前まで助命嘆願の声が上がり続けていたという。9月の事件で12月まで処罰が遅れたことは頼遠の実力を表しており、その多くの戦功が認められていたからこそ、本来なら断絶するはずの土岐氏が存続を許され、家督は甥の土岐頼康に継承された。頼遠の息子達は厚見郡の隣の本巣郡に移り土着したという。 武将としての活躍が多いが文化人としての側面もあり、『新千載和歌集』・『新拾遺和歌集』・『新後拾遺和歌集』に和歌が残されている。また、父と同じく寺社の開基に取り組み、夢窓疎石を美濃に招いて加茂郡に妙楽寺・東光寺を創建した。 法名は乗船寺覚然大悟。岐阜県岐阜市手力雄神社にある宝篋印塔が墓とされている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土岐頼遠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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