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土師馬手 : ウィキペディア日本語版
土師馬手[はじ の うまて]
土師 馬手(はじ の うまて/まて、生年不詳 - 和銅4年2月26日711年3月19日))は、日本の飛鳥時代の人物である。、後に宿禰〔出自ははっきりしたことは不明であるが、後世の系図で大華下・土師身(身形子)の子とするものがある。(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会,1986年 による)〕。位階従四位下
672年壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)につき、信濃国など東山道の兵を興す使者になった。持統天皇文武天皇の葬儀に働いた。
== 事績 ==
壬申の乱が勃発したとき、土師馬手は屯田司の舎人であった。どこの屯田かは不明だが、後述の莬田(大和国宇陀郡)の近くであろう。その屯田が大海人皇子のためのものであろうとする説と、そうとは限らないとする説とがある。
壬申の年(672年)の6月24日、近江の朝廷と戦うことを決めた大海人皇子は、吉野宮から東に急いで莬田の吾城に至った。このとき、土師馬手が一行に食事を提供した。馬手はそのまま皇子に従って行をともにしたらしい。伊勢国朝明郡で、皇子は土師馬手を稚桜部五百瀬とともに東山(東山道)に遣わして兵を興させた。以上は『日本書紀』の記述で、『釈日本紀』は『安斗智徳日記』の中に(皇子が)「信濃の兵を発させた」という文があると指摘する。両書の違いは動員が上野国下野国などまで及んだかに関わる。
乱の後、書紀が天武天皇、持統天皇の代を記す中に馬手の名は現れない。天武天皇13年(684年)2月2日に、土師連など50氏は宿禰姓を与えられた。
続日本紀』では、文武天皇とその次の元明天皇の代に、天皇の陵と葬儀に関する記事で馬手が頻出する。馬手はその中心というわけではなく、多数の官人の中の一人ということが多かった。まず、文武天皇元年(697年)1月19日に、新羅の使者金弼徳らが持ってきた貢物を献じるため大内山陵に遣わされた。文武天皇3年(700年)10月20日に、越智山陵山科山陵を修造するために官人が二手に分かれて派遣されたとき、山科山陵に大石王粟田真人・土師馬手・小治田当麻と判官3人・主典2人・大工2人が遣わされた。
大宝2年(702年)12月22日に持統天皇が死ぬと、翌大宝3年(703年)10月9日に、御葬司が任命された。その正五位下土師宿祢馬手は、息長王高橋笠間とともに、造御竈長官志紀親王を補佐する副になった。葬儀はその年の12月に執り行われた。慶雲4年(707年)6月15日に文武天皇が死ぬと、10月3日に正五位上土師宿祢馬手が、下毛古麻呂(下毛野古麻呂)・民比良夫石上豊庭藤原房前とともに造山陵使に任じられた。この葬儀は11月に執り行われた。
和銅2年(709年)1月9日に従四位下に進み、2年後の和銅4年(711年)2月26日に死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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