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土御門泰邦[つちみかど やすくに] 土御門 泰邦(つちみかど やすくに、正徳元年8月8日(1711年9月20日)-天明4年5月9日(1784年6月26日))は、江戸時代中期の公卿・陰陽家。土御門泰福の末子。兄泰連の養子。墓所は京都梅小路梅林寺にある。 土御門泰福の嫡男泰誠は父に先立って病死、そのため、弟の泰連が泰誠の養子として家督を継ぐ。だが、子供に恵まれず末弟の泰邦を養子として迎える。後に泰連には実子泰兄が生まれるが、泰邦が泰兄を養子として後を継がせる事を条件に家督を継いだ(ただし、泰兄とその嫡男有邦は泰邦より先に病死し、萩原家より有邦の養子に迎えられた土御門泰信も廃され、結局分家の倉橋家より泰信の養子として入った土御門泰栄(系譜上は泰邦玄孫)が泰邦の娘婿となり、その後継者となる)。寛延3年(1750年)、引退した兄に代わって従三位となる。 江戸幕府成立以来、幕府は朝廷より改元権限を実質上取り上げていたが、更に貞享暦制定の際に土御門泰福の配下として実務にあたった渋川春海を天文方に引き入れて改暦権限まで奪い取った。これを憂慮した泰邦は西村遠里ら在野の暦学者を保護して自分の傘下に入れていた。折りしも、8代将軍徳川吉宗は、西洋天文学に基づいて新暦作成のために天文方の西川正休を京都に派遣した。ところが、その矢先に吉宗が病死し、幕府内部は改暦どころではなくなった。そこで泰邦は西川らを京都から追放して自ら改暦を主導して宝暦4年(1754年)宝暦暦を作成して、翌年実施された。この功績によって正二位治部卿にまで昇るが、宝暦暦施行からわずか8年後には麻田剛立や西村遠里によって日食予測の不備が指摘されるなど、問題が多く、泰邦在世中の明和8年(1771年)には早くも修正が加えられ、泰邦死後わずか13年にして再度寛政暦への改暦が行われる(寛政9年(1797年))ことになったのである。 宝暦10年(1760年)に、宣旨を将軍家に伝える勅使とともに江戸に旅する。その際の道中を「東行話説」という記録に残している。道中各所の名産、特に食べ物の感想が多く、それはあくまで個人の感想ではあるが、当時の東海道中の食べ物(名物)の、貴重な記録である。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土御門泰邦」の詳細全文を読む
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