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土橋守重[つちばし もりしげ] 土橋 守重(つちばし もりしげ、? - 天正10年1月23日(1582年2月15日))は、戦国時代の武将。雑賀衆の一人。土橋重隆の子。平次。若太夫。「守重」で広く知られるが、文書で確認できる諱は「胤継」。栗村城主。弟(子とも)に土橋重治。 紀伊国を代表する国人で、雑賀衆の中でも大きな地位を占めながら、根来衆の当主にも一族を送り込むなど、かなりの勢力を有した。はじめ、雑賀鈴木氏と共に石山本願寺に協力して、織田信長と敵対、三好氏に援軍を送るなどしたが、天正5年(1577年)3月に鈴木氏と共に信長に降伏した。しかし、織田氏への敵対姿勢を完全には崩さなかった土橋氏と、比較的織田氏に恭順的であった鈴木氏との間で確執が発生し、鈴木氏との勢力争いに発展、天正10年(1582年)1月23日に鈴木重秀によって守重は謀殺された。この殺害には土橋一門の名前も連なっており、単純に鈴木氏と土橋氏の確執という問題と共に、土橋一族内での内紛の要素や、織田氏による反織田勢力の駆逐計画も絡んでいたとされる。 本能寺の変が発生すると、織田氏の支援を受けられなくなった鈴木氏は長宗我部氏・根来衆らの支援を受けた土橋勢に反撃されて紀伊を追われ、小牧・長久手の戦いを経て、天正13年(1585年)の秀吉による紀州征伐まで土橋氏が雑賀衆の主導権を握ることとなる。 == 参考文献 ==
* 『紀州雑賀衆・鈴木一族』(鈴木真哉著・1984年)
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土橋守重」の詳細全文を読む
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