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土門 正夫(どもん まさお、1930年3月24日 - )は、元NHKアナウンサー。現在はフリーアナウンサーやスポーツコメンテーターとして活動中。 == 来歴 == 神奈川県横浜市生まれ。 1951年日本大学専門部を卒業しNHKに入局。広島局、大阪局を経てから東京アナウンス室で勤務。 主にスポーツ中継の実況を担当。1960年のローマオリンピックから、1984年のロサンゼルスオリンピックまで、合計7回の夏季オリンピック放送を担当した。 オリンピック中継では特にバレーボールの中継担当者として知られ、1964年の東京オリンピックでは女子バレーボール決勝の×戦のラジオ実況中継アナウンス、1972年のミュンヘンオリンピックでは男子バレーボールの準決勝の×、決勝戦の×の2試合のテレビ実況中継アナウンスを担当、日本バレーボール史上に残る名勝負となった3試合の実況を担当したことで、日本のスポーツファンにその名を印象づけた。 また、1964年の東京オリンピックの閉会式では、各国の選手が混じり合ってスタジアムに入ってくる予定外の状況にとまどい、カメラに映し出される情景を随時伝えていった。予定されていたプログラムと大きく離れたことから、他の中継スタッフともども大変な放送をしてしまったという思いを抱いていたが、渋谷の放送センターに戻ると他の職員から賞賛の拍手を受けた。この経験から、スポーツのテレビ中継はその場面に応じた内容を伝えるものだということに気づいたと後年語っている(2008年10月13日放送 NHK BS2『お宝TV』でのコメント)。 なお、土門本人は自らのオリンピック中継で印象に残る場面としては「ロサンゼルスオリンピック(1984年)の女子マラソンのラジオ中継を担当した際に、フラフラになりながら競技場に入ってきたガブリエラ・アンデルセン()のゴールシーンだった」ことを語っている〔『あの人は今こうしている』 日刊ゲンダイ 2013年9月2日発行17頁〕。 1960年代に入ってからは年末恒例の『NHK紅白歌合戦』にも何度か登場し、1963年の第14回から1965年の第16回まではテレビ実況を、1974年の第25回では中江陽三アナウンサーとともに総合司会をそれぞれ務めた。 スポーツ実況をメインとしていたが、芸能から教養まで多彩な番組に登場し、オールラウンド・アナウンサーとして明るく軽妙な語り口で知られた。 1987年に定年を迎えた後も同局のアナウンス室専門委員として番組を受け持った。 1988年、NHKを離れ、フリーのアナウンサー・スポーツコメンテーターに転身。関西方面を中心に活動し、サンテレビと東海ラジオでプロ野球中継の実況・解説を担当。元NHKアナウンサーにも関わらず、かなり阪神タイガース贔屓の実況にスタンスを変えた。これは土門自身が「私は小学生の時からの阪神タイガースファンであった」ためでもあったという〔。 1991年6月13日、1987年から最下位と5位に低迷する阪神の、神宮球場における5位ヤクルト11回戦を実況。温和ながらも阪神側のスタンスから実況していた際、試合が中盤までかなりの阪神劣勢で進んでいたところにさらにヤクルト打線が爆発。打者一巡の猛攻を誰もとめられずベンチ入りの阪神投手陣全員が火だるまとなり、球場はヤクルトファンによるお祭り騒ぎとなる。このとき、「スタンドはヤクルトファンによるウェーブが起こっています。ホームベースと3塁側まで回って外野まで届こうとしています。ああっ!レフト側の阪神ファンまでもが一緒になってウェーブをやっています!」「何ということでしょう、涙が出てきました。テレビの前の皆さん、お願いします。チャンネルを変えないで下さい。スイッチを切らないで下さい。そしてこの光景を目に焼き付けてください。これが、1991年の阪神タイガースの、まぎれもない現実の姿です!」と実況、不甲斐ないチームへの土門アナウンサー涙の実況として阪神ファンと関西地方に大きな衝撃を与えた〔この日の最終スコアは5-19で、当時の既存12球団で歴史上唯一、2ケタ連敗のなかった阪神がこの日の敗戦で10連敗目を喫した記録的な日でもあった。〕。 現役のスポーツアナウンサー時代には、試合開始の何時間も前から球場入りしてチーム関係者に自ら取材するなど現場の空気を視聴者に伝える努力を怠っていなかった。 日本放送協会退職後はスポーツを中心とした講演活動に対して積極的に取り組む一方で、日本大学藝術学部放送学科で教鞭を執っていた〔。2000年に全ての活動を引退しており、現在は隠棲生活を送っている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土門正夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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