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地本問屋(じほんとんや)とは、寛文期(1661年 - 1673年)から江戸で始まった地本を、作って売った問屋。地本(じほん)とは、江戸で出版された大衆本の総称。洒落本・草双紙・読本・滑稽本・人情本・咄本・狂歌本などがあった。草双紙の内訳として、赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻があった。 == 流れ == 日本の商業出版は、元和期(1615年 - 1624年)に京都で始まった。初期は仏書・儒書・史書・軍記・伝記・医書など硬い本に偏り、それらを『物之本』と言ったが、明暦・万治(1655年 - 1661年)頃からは、俳諧書、浄瑠璃本、仮名草子、御伽草子などの娯楽本も出始めた。 江戸時代の本屋は、編集と製本と小売と取り次ぎを行い、古書も扱った。 江戸では、松会市郎兵衛ら地元の店はまだ少なく、京都からの出店が本店の本を売り、それらを『下り本』と呼んだが、寛文期(1661年- 1673年)から草双紙が出版され始め、それを含め、江戸で作って売る娯楽本を、『地本』『江戸地本』、それの本屋を『地本問屋』と呼んだ。地本問屋は、錦絵などの浮世絵木版画も摺って売ったため、地本錦絵問屋とも言われたほか、絵草紙屋などとも言われた。 『地本問屋』に対し、物之本を作って売る店は『書物問屋』と言った。 体制批判や風紀紊乱を警戒して、江戸幕府は天和期(1681年 - 1684年)期から出版統制に乗り出し、それの実効的な法令は、1722年(享保7年)の大岡忠相の『寅年の禁令』で、その一環として、従来陰で動いていた本屋の『仲間』(同業者組合)を、公認した。そこでは、互選した行司(世話役)が、仲間の出版の可否を自主的に審査し、それは海賊版の流通を防いで、会員の利にも繋がった。『書物問屋仲間』は晴れて動き出したが、『地本問屋仲間』の方は、寛政の改革下の1790年にようやくできた。 この頃、戯作者の朋誠堂喜三二と恋川春町が執筆をやめ、蔦屋重三郎と山東京伝が罰せられた。 改革後の文化文政(1801年 - 1820年)期は、地本も盛り、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、式亭三馬の『浮世風呂』、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』、柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』などが地本問屋を潤わせ、また、葛飾北斎・歌川国貞・渓斎英泉・歌川広重・歌川国芳・東洲斎写楽らの浮世絵が、店先を賑わわせた。 天保の改革が始まった1841年(天保12年)、排他的との理由で、各業界の『仲間』が解散させられた。副作用として地本問屋の開業が自由になり、解散令が撤回されたのちの1851年(嘉永4年)、地本問屋は164軒と、5倍以上になった。しかし、天保の改革の余波で為永春水(1841年)と柳亭種彦(1842年)は没し、曲亭馬琴(1848年)も去り、地本の作者陣は淋しくなった。 諸外国が開港を迫り、勤王・佐幕の騒ぎを経て明治となり、太政官日誌・政府の職員録・教科書作りなどに転身する問屋もあったが、台頭した活版印刷の陰に埋もれて行った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「地本問屋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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