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地獄太夫(じごくたゆう、生没年不詳)は、室町時代の遊女。梅津嘉門景春のむすめで幼名を乙星という〔上村行彰 『日本遊里史』 藤森書店 、1982年7月〕。 ==人物== 如意山中で賊にとらわれたが、あまりの美貌のため遊女に売られ、泉州堺高須町珠名長者に抱えられた。現世の不幸は前世の戒行が拙いゆえであるとして、自ら地獄と名乗り、衣服には地獄変相の図を繍り、心には仏名を唱えつつ、口には風流の唄をうたったという。 一休宗純が堺におもむいたとき、「聞きしより見て美しき地獄かな」と歎賞すると、武家の生まれで歌のやり取りにも秀でていた太夫は「生き来る人の落ちざらめやも」と見事に返し、これを機に2人は師弟関係を結んだという。有名な狂歌「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」は、一休が太夫に贈ったものとする説もある〔。 地獄太夫は「我死なば焼くな埋むな野に捨てて 飢えたる犬の腹をこやせよ」という辞世の句を残して若くして亡くなったが、最期を看取った一休は、泉州八木郷の久米田寺に塚を建てて供養したといわれる〔。 山東京伝の「本朝酔菩提」に描かれており、江戸時代から明治時代にかけては数々の絵師により絵画の題材にもなっている〔。特に河鍋暁斎は、版画・肉筆問わずしばしば地獄太夫を描いている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「地獄太夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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