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北条 綱成(ほうじょう つなしげ/つななり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。 相模国鎌倉郡玉縄城主。北条家の主力部隊五色備えの内、黄備え隊を率いた。綱成与力衆は組織上、玉縄衆とも呼ばれ相武国境をまたいで主に鎌倉郡・久良岐郡の旗下で編成された部隊だった。 == 生涯 == === 北条氏に仕えるまで === 永正12年(1515年)に誕生。父は今川氏家臣の福島正成とされる。 その後、父・正成の死により、小田原へ落ち延びて北条氏綱の保護を受けたといわれる。経緯については、大永元年(1521年)に飯田河原の戦いで父・正成ら一族の多くが甲斐武田氏の家臣・原虎胤に討ち取られ、家臣に伴われて氏綱の元へ落ち延び近習として仕えたとも、天文5年(1536年)に父が今川家の内紛である花倉の乱で今川義元の異母兄・玄広恵探を支持したために討たれ、氏綱の元へ落ち延びたという2つの説がある。 氏綱は綱成を大いに気に入り、娘を娶わせて北条一門に迎えるとともに、北条姓を与えたという。綱成の名乗りも、氏綱から賜った偏諱(「綱」の字)と父・正成の「成」を合わせたものとされる。その後、氏綱の子である北条為昌の後見役を任され、天文11年(1542年)に為昌が死去すると、年長である綱成が形式的に為昌の養子となる形で第3代玉縄城主となった。 しかし、福島正成を父とする説をめぐっては異論があり、黒田基樹は『北条早雲とその一族』の中で上総介正成という人物は実在しないとしており、小和田哲男も『今川氏家臣団の研究』の中で福島上総介正成という名前は古記録や古文書に出てこないとしている。そのため綱成の実父については、黒田(『北条早雲とその一族』)は、大永5年(1525年)の武蔵白子浜合戦で戦死した伊勢九郎(別名・櫛間九郎)とし、下山治久(『後北条氏家臣団人名辞典』)も同様に櫛間九郎の可能性を挙げている〔。一方で高澤等は武蔵国榛沢郡の武蔵七党猪俣党野部(野辺)氏の後裔と考察している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条綱成」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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