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坂井 秀至(さかい ひでゆき、1973年4月23日 - )は、日本のプロ棋士。関西棋院所属。兵庫県三田市出身。灘高校、京都大学医学部卒業。医師の資格を持つ。佐藤直男九段門下。 == 略歴 == *産婦人科医院を営む父の影響で7歳から囲碁をはじめ、三田市立三田小学校3年から佐藤直男の子供囲碁教室に入る。同教室には、1級上に結城聡が居た。結城が院生になり参加資格が無くなった、小学4年から少年少女囲碁大会小学生の部兵庫県代表となり、全国5位に。翌年は全国大会決勝戦で、倉橋正行に敗れ準優勝。同年には全日本アマチュア本因坊戦兵庫県代表にもなり、アマチュア本因坊戦最年少出場記録であった。その翌年小学6年生に少年少女囲碁大会で優勝を果たす。 *灘中学1年、佐藤が妻の死去のため囲碁教室をやめると藤沢秀行の主催する合宿、いわゆる「秀行塾」に倉橋・結城らと参加するようになる。また、少年少女全国大会・中学生の部で3連覇を果たす。 *灘高校では、囲碁部主将として全国高校囲碁選手権大会団体戦3連覇を経験。副将に光永淳造。1990年は個人戦でも優勝を果たす。高校3年の秋から、大学浪人の2年間は囲碁から離れる。大学入試の面接で大学に入学したら何をやりたいかと問われた際に「碁をやりたい」と答えたと語る。 *1993年、京都大学医学部に入学。父の影響で産婦人科専攻を志す。1年の留年を含み2000年までの7年間に、数々のアマチュアタイトルを手にする。 *1994年国際アマチュア・ペア碁選手権大会優勝(パートナーは当時アマの梅沢由香里)。1995年は、キリン杯GO団体戦に近畿チームの6将として、全勝で優勝に貢献。1996年から2002年まで日本アマ囲碁最強戦6連覇を果たす。1997年には全日本アマチュア本因坊戦にも優勝(当時最年少記録)し、アコム杯全日本早碁オープン戦では桐本和夫・古田直義のプロを破る活躍。 *1997年・1999年・2000年、JAL杯世界アマチュア囲碁選手権の日本代表となり、2000年に世界一を経験。(1997年・1999年は準優勝)。アマチュア世界一として広く知られる。 *医師国家試験合格後の、2001年6月から京都大学付属病院に研修医として配属が決まっていたが、5月からのオリエンテーションで、朝7時から夜の12時まで働き詰めであることを知り、囲碁を学ぶ時間が無くなることが明らかになると、棋士の夢を諦めきれず関西棋院にプロ入りを希望し申請を行った。 *このプロ編入試験は、7月から開始し特例で4番勝負となり1勝で初段、2勝すれば三段、3勝で五段とされたが長谷川広・中野泰宏それぞれと2番ずつ打ち、全てに勝利し飛付五段でデビューを果たした。同年7月アマとしてオープン戦の鳳凰杯で楊橋を下し優勝。直後から各種棋戦で活躍し、関西棋院の看板棋士の一人となっている。 *2003年6月9日、勝星規定で六段に昇段。関西棋院第一位決定戦で湯川光久九段を2-1で降し、初タイトル。 *2004年、名人戦リーグ入りを果たす。これにより七段昇段。 *2007年4月に6歳年下の医師と結婚。夫人との間に1男、1女。 *2010年、碁聖戦4連覇中で、5連覇による名誉碁聖資格のかかっていた張栩棋聖・十段・王座・碁聖に挑戦し、3勝2敗でタイトルを奪取。大学卒業後にプロ入りした棋士として、初のタイトル挑戦者にして初の七大タイトルの獲得者となった(大学卒業者であれば、プロ入り後に大学を卒業した淡路修三がタイトル挑戦者となっている)また、このタイトル獲得は関西棋院にとって、1981年に橋本昌二が加藤正夫王座を下しこれを得、翌年加藤に破れ失冠以来29年ぶりの七大タイトル奪取となる。七大タイトル奪取により昇段規定で八段昇段を果たす。 *2011年8月4日、36期名人戦リーグ最終局に敗れ、2勝6敗でリーグ戦初の陥落。 *2011年8月29日、羽根直樹九段を迎えての碁聖初防衛戦。2連勝し防衛に王手をかけるも、3連敗で失冠する。 *2011年11月19日、関西棋院第一位決定戦の挑戦者となり、村川大介第一位を2-0で降し、挑戦手合となってから自身初、決勝三番勝負時代を含めると2度目の第一位となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「坂井秀至」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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