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坂内永三郎[さかうち えいざぶろう]
坂内 永三郎(さかうち えいざぶろう、1907年1月11日 - 没年不詳)は、日本の俳優である〔著作権資料協会、p.182.〕〔''坂内永三郎''、日本映画データベース、2012年12月3日閲覧。〕〔''坂内永三郎''、KINENOTE、2012年12月3日閲覧。〕〔''坂内永三郎''、映画データベース、東宝、2012年12月3日閲覧。〕。別名:阪内 栄三郎〔。 == 人物・来歴 == 1907年(明治40年)1月11日に生まれる〔。 京都の新興キネマに所属し、1934年(昭和9年)10月11日に公開された寿々喜多呂九平監督の『七宝の桂』が、もっとも早い時期の出演記録である〔〔〔。1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)にマキノ正博が新しく撮影所を建設・設立したマキノトーキー製作所に、翌1936年(昭和11年)に第二期入社で参加する〔〔マキノ、p.338-374.〕。同社は1937年(昭和12年)4月に解散し、マキノ正博らは日活京都撮影所に移籍したが、坂内は東宝映画京都撮影所に移籍している〔。 第二次世界大戦終結後は、東宝、あるいは新東宝に所属した〔〔〔。俳優座に所属した記録も残っている〔春の囁き 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月3日閲覧。〕。 映画監督の中川信夫とは、坂内の妻・愛ともども、マキノトーキー以来の交流があり、1973年(昭和48年)6月には、手紙魔の中川が、坂内の妻が寂しそうだったので、という理由で、1年間毎日手紙を書く約束をし、中川はこれを実行した〔中川, p.81.〕。1976年(昭和51年)発行の『映画年鑑 1977』には、川崎市多摩区登戸に在住している旨の記述があるが、それ以降の版には見当たらない〔時事映画通信社, p.311.〕。没年不詳。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「坂内永三郎」の詳細全文を読む
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