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坂本 則美(さかもと のりみ〔または のりよし〔、1848年もしくは1850年頃 - 1913年9月15日)は、明治時代の日本の実業家、政治家。土佐藩出身。貧困児童救育事業で明治初頭に活躍し、高知県会議員を務めた。その後、琵琶湖疎水建設事業に携わり、さらに衆議院議員を務めた。さらにその後、実業界に転身し、総武鉄道社長、夕張炭鉱社長などを務めた。 == 生涯 == 1848年あるいは1850年頃〔「弘化四年十一月二十六日」(矢部)、「嘉永3年」「生年が弘化4年とする説もある」(国立国会図書館)、「1848年」「弘化(こうか)4年11月26日生まれ」(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)、「1850年」(『日外アソシエーツ 人名事典』)。西暦では、弘化4年11月26日は1848年、嘉永3年は1849~1850年にあたる。〕、高知県土佐郡一宮村に生まれる〔〔。高知藩士坂本覚次郎の三男〔。明治7、8年ごろから貧児救育事業を始め〔、貧児救育事業団体の詵々社の社長となり〔、高知慈善協会の設立にも関わった〔 講談社 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 http://kotobank.jp/word/坂本則美 2009年 〕。1879年に高知県会議員に当選し〔、議会副議長などに選ばれ〔矢部信太郎編『近代名士之面影.第1集』竹帛社、1914年 〕、1882年まで議員を務めた〔 国立国会図書館 『坂本則美 | 近代日本人の肖像』 http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/88.html 2004年 〕。 1885年に京都府知事北垣国道の招聘で京都疎水(現在の琵琶湖疏水)事務所理事となった〔。1889年に京都市参事会員〔。1892年に衆議院議員となり〔〔〔、二回〔〔(三回?〔)当選した。外務大臣大隈重信の条約改正に反対し、上京して直接面談して反対意見を述べて世論喚起を図った〔。 その後は実業界で活躍した。総武鉄道の人員整理に活躍し、取締役社長に推挙された〔。1898年、北海道鉄道株式会社専務取締役理事となった〔。さらに夕張炭鉱社長、京都合資会社社長などを歴任した〔。1913年9月15日、肝臓炎により東京麹町の自宅で死亡〔。20日に青松寺で葬儀が行われ、遺骨は後に京都の紫野徳大寺に葬られた〔。戒名は「聖諦院不識則美居士」〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「坂本則美」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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