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坂本直柔 : ウィキペディア日本語版
坂本龍馬[さかもと りょうま]

坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(新暦1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(新暦1867年12月10日))は、江戸時代末期志士土佐藩郷士
直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬〔「りゅうま」「りょうま」「りゅうめ」などと読み得るが、岩崎弥太郎など同時代人の日記や書簡に「良馬」と記されているし、龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署しているので「りょうま」と読まれていたと考えられている。なお、「竜」は「龍」の常用漢字表に採用された字体で、江戸時代以来一般には「龍」の略字として認識されていたが、本は古字である。学校教育では、「坂本龍馬」という表記と、「坂本竜馬という表記の両方が使われているが、どちらでもよい。前者の例としては、平成11年1999年)3月実施北海道 公立高校 入学試験の社会の大問4問5(2)の選択肢: 「ア 木戸孝允 イ 坂本龍馬 ウ 西郷隆盛 エ 徳川慶喜」などがあり、後者は、『中学社会 歴史』(教育出版。平成8年2月29日文部省検定済。教科書番号: 17教出・歴史762)p.181, 『社会科 中学生の歴史』(帝国書院。平成17年3月30日文部科学省検定済。教科書番号:46帝国 歴史-713)p.144, 『新しい社会 歴史』(東京書籍平成13年3月30日検定済。教科書番号: 2 東書 歴史702)p.120などで使われている。 〕。
他に才谷 梅太郎(さいたに うめたろう、さいだに うめたろう)などの変名がある (手紙と変名の項を参照)。
土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えるなど、重要な働きをした。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。1891年(明治24年)4月8日、正四位追贈される。
== 生涯 ==

=== 幼少年期 ===

龍馬は天保6年11月15日(1836年1月3日)〔別説に10月15日生(坂崎紫瀾『汗血千里駒』)と11月10日生(瑞山会『維新土佐勤王史』)がある。11月15日説では現行の暦に照らすと龍馬が生まれた日は年明け後になり、1836年になる。〕、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下級武士)坂本家に父・八平、母・の間の二男として生まれた。兄(権平)と3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいた。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、第六代・直益の時に長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興した〔松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)p.2〕。
土佐藩の武士階級には上士と下士があり、商家出身の坂本家は下士(郷士)だったが、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭だった〔松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)p.3〕〔『坂本龍馬とその時代』p.19〕。
龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ瑞夢を見て〔坂崎紫瀾『汗血千里駒』(明治16年)
* 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 坂崎紫瀾『汗血千里駒』 〕(または父が駿馬の母が蛟龍の夢を見たとも〔弘松宣枝『阪本龍馬』(大正元年)
* 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 弘松宣枝『阪本龍馬』(明治29年版) 〕)、それに因んで龍馬と名づけられ、幼い龍馬の背には一塊の怪毛があった〔千頭清臣『坂本龍馬』(大正3年)〕という伝説がある。
弘化3年(1846年)、12歳のときに母・幸が死去し、父・八平の後妻・伊与に養育された〔松浦玲『坂本龍馬』(岩波新書、2008年)pp.5-7〕。
幼年の龍馬は12、3歳頃まであたかも愚人のように夜溺れの癖(寝小便癖)があったとされる〔が、愚童であったとの記録はない〔高知県立坂本龍馬記念館 龍馬の生涯 少年期 〕。気弱な少年であり、漢学の楠山塾に入学したものの、いじめに遭い抜刀騒ぎを起こして退塾させられてしまったといわれているが、これも諸説あり、はっきりした退塾理由はわかっていない〔『坂本龍馬歴史大事典』(新人物往来社、2008年)p.58〕。以降、三姉の乙女が武芸や学問を教えたという〔新・歴史群像シリーズ 20『坂本龍馬と海援隊』(学研パブリッシング、2009年)p.47〕。
龍馬の人格形成において多大な影響を与えていったのは、父・八平の後妻・伊与の前夫の実家である下田屋(川島家)といわれている。龍馬は姉・乙女とともに浦戸湾を船で渡り、当時土佐藩御船蔵のあった種崎にある川島家をたびたび訪れては、長崎や下関からの珍しい土産話などを聞いたとされる。また、世界地図や数々の輸入品を見て外の世界への憧れを高めたともいわれている〔詳細は山田一郎『海援隊遺文』(新潮社、1991年)などに、また土佐藩の御船蔵や海事資料については吉永豊実『土佐海事法制史』(山海堂、1983年)に詳しい。〕。
嘉永元年(1848年)に日根野弁治道場に入門して小栗流を学び、非常に熱心に稽古し、5年の修業を経た嘉永6年(1853年)に「小栗流和兵法事目録」〔京都国立博物館蔵〕を得た。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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