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坂田 栄男(さかた えいお、1920年(大正9年)2月15日 - 2010年(平成22年)10月22日)は、囲碁棋士。東京都出身、日本棋院所属、増淵辰子八段門下、九段。本因坊戦で7連覇して本因坊栄寿と号し、二十三世本因坊の資格を持つ他、選手権制初の名人・本因坊、7タイトル制覇、タイトル獲得64回など数々の記録を持つ、呉清源と並び称される昭和最強棋士の一人。切れ味の鋭いシノギを特徴として「カミソリ坂田」の異名を持ち、数々の妙手、鬼手と呼ばれる手を残している。また布石での三々を多用した。 日本棋院理事長を1978年から1986年まで務めた後、1988年7月より日本棋院顧問。2000年2月15日に現役を引退。2009年より日本棋院名誉顧問。 ==経歴== ===生い立ち=== 東京府大森町に生まれる。囲碁好きの父の影響で囲碁を覚え、1929年に増淵辰子二段に入門、翌年日本棋院院生となる。1933年の入段手合では有力視されたが、先輩達が長考を繰り返して徹夜勝負としたのに体力負けして入段を逃し、このため翌年からは入段手合にも持時間制が設けられた。1935年に入段、1940年五段と、当時では藤沢庫之助に続くスピード昇段を果たす。1943年『棋道』新鋭三羽烏勝抜争覇戦に出場、目標であった藤沢庫之助に初めて白番勝ちし、3勝1敗で優勝。同年、第3期本因坊戦では、五段級、六段級予選を勝ち抜くが、七段級予選で敗退。1944年に2ヶ月の教育召集、45年に空襲で大手合が中止となると稽古先の軍需工場勤めもしたが、自宅も焼けて北浦和に疎開。 戦後は1946年に再開された大手合で七段昇段。1947年に日本棋院に不満を訴え、前田陳爾七段、梶原武雄五段らと8棋士で囲碁新社を結成して日本棋院を脱退。1948年には坂田は呉清源との三番碁を打つが(坂田先相先)、3連敗する。次いで梶原も先番逆コミで呉に敗れて意気消沈し、1949年に全棋士が日本棋院に復帰した。 1951年に第1期日本棋院最高段者トーナメントで、細川千仭との決勝を2-0で勝ち初の棋戦優勝。第6期本因坊戦リーグで、木谷實、長谷川章と3人が3勝2敗の同率となったが、坂田が同率決戦で2連勝して挑戦者となる。この前年に橋本宇太郎が本因坊位を持って関西棋院の独立をしていたことから、日本棋院の本因坊奪還の期待を一身に背負っての挑戦手合となるが、3勝1敗後の3連敗で橋本に敗れる。 1952年の四強リーグ戦に優勝したことで、1953年に呉清源と六番碁(坂田先相先)を打ち、4勝1敗1ジゴとする。先相先とはいえ呉に勝ち越したことで世間の注目を集めるようになり、さらに同年、呉と十番碁(坂田先相先)を打つが、8局目で2勝6敗となり定先に打ち込まれる(8局で打ち切り)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「坂田栄男」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Eio Sakata 」があります。 スポンサード リンク
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