|
坪井 九馬三(つぼい くめぞう、安政5年12月12日(1859年1月15日) - 1936年1月21日)は、歴史学者、東京帝国大学教授。 == 経歴 == 摂津国西成郡九条村(現大阪府大阪市西区)に生まれる。 幼少時は僧侶の叔父に教育を受けた。14歳の時父を失う。以後親戚に引き取られた。翌年から大阪開成所で学んだ。17歳の時、東京外国語学校に入学し、翌年卒業し、東京開成学校を受験し入学する〔岡田俊裕著 『日本地理学人物事典 [近世編 1] 』 原書房 2011年 80ページ〕。1881年東京帝国大学文学部政治理財学科卒、1885年同理学部応用化学科卒、文学史と理学士の学位を受けた。1883年、在学中から文科大学で史学(欧米史)を講義し、1886年、29歳の時、講師、その後文学部と理学部の教員を兼務した後、史学に専念のため1887年ヨーロッパに留学して、ベルリン大学(1887年10月-1889年8月)、プラハ大学(1889年10月-1890年3月)、ウィーン大学(1890年4月-7月)、チューリッヒ大学(1890年10月-1891年7月)に学び、留学は四年間に及んだ。西洋史学、史学理論を学ぶ。 1891年10月、帰国、翌月、34歳で東京帝国大学文科大学教授となた。1900年、43歳で「歴史地理」の講義を開始した。1899年創立の日本歴史地理研究会(後の日本歴史地理学会)の会員であり、その機関誌『歴史地理』に論文「歴史地理とは何ぞや」を1900年に発表した〔この論文で「歴史地理学は地理学の一部であって、史学に属するものではない。(中略)その任務は、地表面の性質とその変化によって生じる人類の生活状態/社会制度/国家制度の変遷を研究する事にある。そのため、それぞれの地表・地盤を実地研究し、研究地図を作成しなければならない。」と述べている。(岡田俊裕著 『日本地理学人物事典 [近世編 1] 』 原書房 2011年 80-81ページ)〕。 1904年文科大学長、1923年定年退官。1924年より國學院大学講師を委嘱される。1936年、老衰のため死去〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)181頁〕。 1900年東京学士会院会員、後に帝国学士院会員。西洋史のみならず、日下寛とともに日本の史料の校訂も行った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「坪井九馬三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|