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坪井 航三(つぼい こうぞう、天保14年3月7日(1843年4月6日) - 明治31年(1898年)2月1日)は、日本の幕末から明治期の長州藩士、海軍軍人。海軍中将従三位勲二等功三級男爵。幼名・信次郎、のち則光。ミスター単縦陣のあだ名を持つ。 ==経歴== 周防国三田尻(現 山口県防府市)の出身。医師・原顕道の二男として生まれ、藩医・坪井信道の養子となる。20歳のとき庚申丸に乗り、外国船の砲撃に参加する。遊撃隊士として戊辰戦争に従軍。日本海軍の発足後は甲鉄艦副長を務めた。 1871年(明治4年)米国海軍司令長官の下で、旗艦で乗艦実習。1872年(明治5年)、離任し帰国するロジェーズ少将に従い渡米し、ワシントンD.C.にあるコロンビアン・カレッジ付属中学校(現在のジョージ・ワシントン大学)に学んだ。1873年(明治6年)12月の官費海外留学生の一斉帰国命令に従い、1874年(明治7年)7月、帰国した。帰国後、第一丁卯艦長となる。 日清戦争時、第一遊撃隊司令官を務める。単縦陣戦法を唱え、豊島沖海戦、黄海海戦に勝利。とくに黄海海戦では単縦陣の先頭に立って指揮し、優速を利して北洋艦隊の背後に回りこみ、海戦の主導権を握ることに成功する。 日清戦争が始まるまで日本海軍は連日単縦陣と横陣の二手に分け模擬海戦を行ったが、坪井の主張する単縦陣がいつも勝った。しかし当時横陣を有利とする主張も強く、単縦陣で実戦に挑むのは勇気がいることだった。彼は単縦陣にこだわり、率いる第一遊撃隊は戦闘のみでなく偵察、航行の時も単縦陣の陣系を崩さなかった。 黄海海戦で清国海軍の軍艦に乗り日本海軍の動きを見た米海軍少佐は「日本海軍は終始整然と単縦陣を守り、快速を利して有利なる形において攻撃を反復したのは驚嘆に値する。」と日本海軍の単縦陣を高く評価した。以後単縦陣は海戦のセオリーとなる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「坪井航三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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